チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2011年1月3日
一人の僧侶がナイフを自分に刺し自殺した
12月28日付け、Tibet Times チベット語版より。
http://www.tibettimes.net/news.php?showfooter=1&id=3825
<གྲྭ་བ་ཞིག་གིས་སོ་སོར་གྲི་བཙུགས་ཏེ་རང་ཤི་བརྒྱབ་སོང་།>
2008年ラサ蜂起の時、抗議に参加した、カム、ソク・ゾン(སོག་རྫོང་、索県)チャムダ(ལྕམ་མདའ་)郷出身の僧侶トゥプテン・ノルブ(ཐུབ་བསྟན་ནོར་བུ་)
は中国の監獄から開放された後、最近インドに亡命した。
当メディアが彼に会い、ラサ蜂起前後の様子について話を聞いた。
「2006年、故郷を離れ勉強のためデブン僧院に赴いた。しかし、正式に入学することは当局が許さず、聴講生としてしか認められなかった。ほとんどの僧侶が自分と同じ境遇だった。チュラ(討論集会)に出ることが許されるだけで、儀式には参加できなかった。僧院には約1000人の僧侶がいたが、そのほとんどはカムとアムドから来た僧侶だった。最初の頃はそれほど厳しくはなかったが、次第に当局から自治区と出身地の許可証が無い者は僧院に居てはならないとの命令が出た。」
蜂起の時のデブン僧院の様子について聞く。
「2008年3月10日から12日までの3日間、我々は抗議デモを行った。14日にはラサで大勢の市民たちがデモを行った。その時、軍隊は殺すべきは殺し、打つべきは打ち、捕まえるべきは捕まえた後、セラ、デブン、ガンデン僧院の僧侶を多数逮捕した。セラの僧侶たちはラサのグル橋གུ་རུ་ཟམ་པ་の近くの監獄に連れて行かれ、デブンの僧侶たちはラサの南西にあるネタン・ドルマ・ラカンསྙེ་ཐང་སྒྲོལ་མ་ལྷ་ཁང་の近くにある軍の駐屯地に連れて行かれた。ラサの監獄はもう一杯だったのでそこに連れて行かれたのだ。そこにはカム、アムド、ウツァンの一般市民も沢山収監されていた。出身地ごとに分けられ、多くは一ヶ月ほどそこに入れられた後、それぞれの出身地の拘置所に送られた。我々はそれからラサのツェルグン・タンཚལ་གུང་ཐང་にある拘置所に8ヶ月ほど入れられていた。その後チャムドの拘置所に送られ、そこに1ヶ月入れられていた。解放後も1週間ごとに地元の警察に出頭しなければならず、自由に人に会う事も、遠くに行くことも許されなかった。また、地域の僧院に行くことも、僧衣を着ることも許されなかった。」
デブン僧院に軍隊が大勢来た時の事を聞く。
「3月13日の夕方、千人を越える軍隊がデブンにやって来て、僧院を封鎖し、1ヶ月間、様々な弾圧を行った。弾圧のために、それに耐えきれなくなった1人の僧侶が自分でナイフを身体に突き刺し自殺した。僧侶たちも抗議を行った。
僧院から誰も外に出ることができず、食料や水が欠乏し、大変苦しんだ。そうしておいて、1ヶ月後の夜中、僧侶たちが寝入っている時、突然それぞれの僧坊に軍人たちが押し入って部屋をむちゃくちゃにした。逆らうものは逮捕された。顔に銃を突きつけて、『この偽坊主が!』とか怒鳴り、銃を発射する振りをした。その後、頭や背中を何度も足蹴にされた。」
デブン僧院の現状について聞く。
「聞いたところでは、抗議活動の後、現在僧侶の数は100人足らずしかおらず、チュラに参加する僧侶は20人にも満たないという。我々は僧院に行くことを禁止されているし、もし行けば中の者たちにも類が及ぶ。学校に行こうと思っても、出身地の許可証がなければ無理だ。デブンのそばのラモ・キャップལྷ་མོ་འཁྲབ་は今軍隊の駐屯地に変わっている。病院も軍隊の住居になっている。2009年3月14日から再び愛国再教育キャンペーンが始まり、批判に晒されることが多くなった。今年始め、家族には瞑想の為に山に行くと言い残し、ラサに出た。その後ガイドに15000元を払い、ダムを経由してネパールに逃れた。」
(中略)
「母は子どもの頃亡くなった。父も2007年に亡くなった。仏教の勉強と、チベットのために働きたいという思いしかない。」と。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)