チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2010年11月27日
ウーセルさんの最新ラサ・レポート
ウーセルさんが拘束されそう!
という話が今月初めに世界を駆け巡った。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/2010-11.html?p=2#20101101
その後、しばらく連絡が途絶え、みんなが心配していたが、約一週間後には
当局の監視の目も弛み、外部とも連絡できるようになった。
世界中のチベットサポーターたちは安堵した。
ウーセルさん、その後無事北京の自宅に帰られ、順調にブログやツイッターをされていたが、また最近、当局の悪さにより、ブログ、ツイッター、メールがハックされ、使用不可能に陥った。
今は再びブログは再開され、ツイッターも復活した。
もっとも、今日も「自分のメールを使って、ウイルス拡散の危険あり!」との警報を流されていた。
中国当局のウーセルさんへの嫌がらせは執拗に続いているようだ。
そのウーセルさんのラサ滞在中のレポートが写真付きでブログにアップされていた。
さっそく、その11月25日付けブログの翻訳をいつもの@yuntaitai(雲南太郎)さんに依頼した。
ウーセルさんの目を通して見た、現在のラサの状況を知る事ができる。
原文:http://woeser.middle-way.net/2010/11/blog-post_25.html
写真はすべて2010年10‐11月、ウーセルさん撮影。
太字化tonbani.
————————————————————-
ラサで目にした現状/回到拉萨之目睹现状
文/ウーセル
写真1/アムドのアバから五体投地で来た若い男女。向こうにいるのは日夜銃を持って
いる軍人。
10月初め、私は北京からラサに帰って家族を訪ね、1カ月余り滞在した。この間、敏感な日や週、月が来るのに伴い、顕著であれ微妙であれ、ラサの情勢に絶えず変化が起きているのを見聞きした。こうした変化は街のあちこちで見つけられた。
たとえばラサに戻ったばかりの数日で、変化を見つけた。雪新村路の入り口に2年前設置されていた歩哨がいなくなっていた。深夜にバルコルを1周する時には、背中合わせで見張ったり、銃を持って巡視したりする軍人約60人を見た。策墨林(ツェモリン)路から青年路の入り口までに巡視の軍人約30人にぶつかったけれど、3月にあちこちで見た無数の武装軍人は実際かなり少なくなっていた。
写真2/大勢の旅行者が群がって五体投地のチベット人を撮影する。近くの屋上には銃を持った軍人が立っている。
しかし、ラサの空気はすぐにまた緊張してきた。雪新村路の入り口の歩哨が復活しただけでなく、ルカン(ポタラ裏の龍宮公園・魯康)の周りにも軍と警察が隙間なく配置されていた。バルコル一帯やカルマクンサンなどのチベット人居住区は言うまでもない。ラサ人の言葉を借りると、そこはバグダッドだった。
1週間ほど、太陽が昇るころ、数機の軍用ヘリがラサ上空を行き交った。本当に超低空飛行で、轟音を響かせゆっくりとかすめていくのを2階の窓から見ることができた。私たちはこれが威嚇だと知っている。これほど大がかりな行動で抑えつける対象は恐らく少数の人ではなく、明らかに「自分たちと同類ではない」一つの民族全体に向けられたものだ。
ある日の午後、私と(夫の)王力雄は魯固北巷の入り口からバルコルに入り、策墨林路、北京東路、ルカンと歩き、至る所で歩哨に立つ軍と警察、特警、公安、保安、私服を見た。大雑把に見て数千人以上いる。バルコル派出所を通り過ぎる時に中を見ると、数十人の若い武装警察が2列縦隊になり、ボクシングや格闘を訓練していた。「やっつけろ!」という掛け声が響き、頭上には「軍民団結、和諧共建」という真っ赤なスローガンが掲げられていて、かなり風刺が効いている。
その時、たくさんの旅行者が足を止め眺めていて、驚きの表情を浮かべた西洋人もいた。王力雄は「西洋人旅行者がこの情景を見れば、間違いなくチベットは植民地だと思うだろう。でも中国共産党はいま自分を強大だと思っているから、隠す隠さないなんてどうでもいいんだ」と話した。
当然、ポタラ宮から西はまったく違う風景で、ラサ人に「漢区」とからかわれ、レストランは繁盛し、料理の香りが漂っている。徳吉(ドルジェ)路と天海路はラサの有名なグルメ街だ。物価は北京とほとんど同じぐらい高く、公金で飲み食いする恐ろしい腐敗街になっており、食事時間になると路上にモーター・ショーのような名車が集まってくる。
もっと派手な腐敗は隠されている。聞くところによれば、地方や軍の官吏がよく集まるレストランの一つは、ラサ飯店近くの「湘鄂情」で、99%は公金支出だ。有名な高官の味の好みを把握し、好みに合わせて料理を出すことができ、ややもすれば1回の食事が数千元、1万元以上になるとまで服務員は話している。
写真3/9頭の龍を彫った壁と赤い灯籠の背後に見えるポタラ宮。
ラサでの予測できない日々で忘れられないのは、夕暮れ時にツェコル(ポタラ宮ふもとの右遶道)を回ったことだ。昼間に供えられたお香の残り香が漂っていて、あの信仰の香りは人の心をリラックスさせてくれる。ただ惜しいのは、あれだけ大きなルカンが漢族地域の公園のように改造されてしまったことだ。池の上にはもう何重ものタルチョは掛けられておらず、9頭の飛龍を彫った壁が正門に立てられ、漢文化建築の気風が充満している。
どんな角度から見てもこの上なく美しいポタラ宮を眺める。「最も反動的で、最も暗黒で、最も残酷で、最も野蛮」という汚名を着せられた「旧チベット」が築いたのだ。「最も先進的」と自らを誇る中国共産党はチベットを51年統治しても、ポタラ宮に匹敵する建築物をまったく建てていないし、うまく何かをしようとして逆にひどいことをしている。
例えば、天安門広場を模倣したポタラ宮広場で今年、まったく余計で豪華な地下道が2本増えた。しかしポタラ宮前の巡礼路では、敷いてから数年の石畳がでこぼこになっていて、役所と民間に大々的な土木工事のチャンスを与えている。この機会に儲けさせてやればいい。心が痛むのは、ポタラ宮に面した何枚かの粗い石畳が無数の信徒の五体投地で平らになり、光っていたことだ。保存するかすぐに記念写真を撮るべきだったのに、もう廃材として持ち去られ、消えてしまった。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)