チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2010年6月29日

ソナム・ドルカの証言

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Marc Riboud以下の証言も、前回と同じように2001年にルンタ・プロジェクトが行った亡命チベット人への一連のインタビューの一つ。
http://www.lung-ta.org/testimony/sonamdolka.html

高橋明美さんがまとめてくださった。

(少々長い。写真はMarc Riboud「1985年」)

■ソナム・ドルカの証言

 私がダラムサラに辿り着いてから、早くも5年の年月が過ぎようとしています。毎日が、重苦しい時間の積み重ねのように感じられます。刑務所で受けた拷問による後遺症は、ますますひどくなる一方で、頭痛とめまいに日々悩まされ続けています。ひどい頭痛のため、何日も眠れない夜が続きます。昼間もなんだかぼんやりしてしまって、時々、自分が何をすべきだったのか、思い出せないことがあります。

そして、まだ刑務所の中にいる父のことが頭から離れず、心配で胸が張り裂けそうです。私の父ツェワン・パルデンは、インドへ亡命しようとした際に、中国とネパールの国境で捕まってしまったのです。ネパール政府はやっとヒマラヤを越えて来た父たちを再び中国へ引き渡したのです。1995年6月のことでした。これからお話しすることは、実際に私たち家族に起きたことです。中国がチベットに侵略して来なければ、決して起こらなかった筈の悲劇、そして多くのチベット人たちが味わねばならなかった苦しみの歴史なのです。

 
Marc Riboud◆ラサでの子供時代

 私はチベットの首都ラサで1967年に生まれました。父は大工をしており、母は洋裁の内職をして家計を助けていました。貧しかったけれども、一人娘だった私は両親からふんだんに愛を受けて育ちました。学校には七年程、ラサの人民学校に通いました。授業はすべて中国語で行われ、生徒はチベット人しかいないというのに、学校でのチベット語の使用は固く禁止されていました。よく農作業や仕事に学校から駆り出されたため、まともな授業はほとんどありませんでした。

 子供の頃、毎日のように政治集会があり、仕事を終えたばかりの両親に連れ出されて、私も集会によく行きました。けれども、幼かった私は話しの内容も分からず、ただ静かに聞いていなければならず、大変苦痛でした。寒い日に凍えながら、終わるのをじっと待っていたことを今でもよく覚えています。タムジンと呼ばれる批判集会もありました。タムジンは私にとって恐ろしい見世物のようなものでした。鬼のように怖い顔をした中国人たちが、高僧だった人たちをつるし上げて、罵声を浴びせながら殴っていました。それを周りのチベット人にも強制するのです。誰も止めさせることが出来ず、目をそむけることも許されませんでした。何故なのか訳が分からず、「お坊さん、何か悪いことしたの? お坊さんが痛い目にあってるのに、どうして助けてあげないの?」と両親にいくら尋ねても、ただ悲しそうに黙っているばかりでした。

 一週間おきぐらいに、中国人の警官が家に来て色々と調べていました。仏像や灯明があるかどうか、ダライ・ラマ法王の写真が隠されていないかを調べました。私はその場所を知っていましたが、何度聞かれても知らない振りをしていました。幼い頃、法具や写真が見つかって両親がタムジンで殴られる夢をよく見ました。朝起きると、急に不安になって慌てて両親の顔を見に行ったりしました。

 もちろん、寺への参拝も禁止されていました。それでも、両親は信仰深かったため、時々こっそりと人目を忍んで、かろうじて破壊から免れていたお堂の鍵を開けてもらっては、仏を拝んでいました。私も両親にせがんでは、よく一緒に連れて行ってもらいました。寺に行くときは、病院に診察を受けに行くと嘘をついて学校を休んでいました。あるとき、その嘘がばれてしまったことがあります。私は、中国人の先生にひどく殴られ、一日中床の上に座っていなければなりませんでした。

 毛沢東が死んだ日のこともよく覚えています。どんな小さな子供でも毛沢東のことをよく知っていました。毎日毛沢東を賛える歌を歌い、毛沢東語録を暗唱させられていたからです。当日、子供たちは胸に白い花を挿して、葬儀に参加せねばなりませんでした。泣いていない子は「どうして泣かないのか」と言って先生から殴られました。私は、目を強く擦り、下を向いてうつむいていました。式の間中、殴られはしないかとずっと怯えていました。

 先生に引率されて、ラサにある博物館に行ったこともあります。そこには、昔チベットが『封建社会』だったころの展示物や写真がたくさんありました。一部の貴族が特権を独占し、民衆からの搾取によって私腹を肥やし、奴隷を虐待している様子。野蛮な刑罰を執行していた様子。そんな蛮行が人形となって並べられていました。贅沢な服に身を包み、豪華な椅子にふんぞり返る太った貴族の脇には、ぼろを着て痩せこけた奴隷が立っていました。罰として目をくりぬかれた罪人、手足を切断された罪人の人形もありました。何のことだがよくわからず、怖くて震えている子供たちに、先生はこう説明しました。

「偉大なる中国共産党がチベット人たちを、野蛮な封建主義者たちから解放するまでは、民衆は常に虐げられ、苦しみ続けていた。少しでも貴族たちに逆らえば、こうした罰が待っていたのだ。毛沢東首席のおかげで、おまえたちはこうやって何不自由なく学校に行け、勉強することが出来るのだ。毛沢東首席への感謝の気持ちを決して忘れてはいけない」

まだ幼かった私は、先生の言葉の真偽を判断することができませんでした。奴隷がかわいそうとの思いと再び昔のチベットに戻ったらどんなに大変だろうという思いで一杯でした。

 家に帰ると、博物館で見たことを両親に話しました。

「先生は、毛沢東がチベットを救ったおかげで、こうして無事に暮らせると言っていたのだけど、本当なの。チベットは昔そんなにひどい国だったの」

両親は私のその言葉を聞くと、とても悲しい顔になりました。

「それは違うよ。確かに懲罰はあったけれども、それは重い罪を犯したり、不正をしたりしたときだけだ。昔、チベットにはちゃんとした法律があって、法律に従って裁かれていたのだよ。誰かがそれを乱用したりはできなかった。中国が来る前と今では確かに生活は大きく変わった。良くなるどころか、本当は悪くなってしまったのだよ。昔は仏教が栄え、人々は信仰によって生きていたというのに」

両親は多くを語りませんでした。けれども、その日から私の心の中に中国人への払拭しがたい不信感が生じたのです。

 私たちの生活は決して楽ではありませんでした。自由に買い物も出来ず、また買うお金もありませんでした。農村では人民公社が導入されて以来、著しく生産高を落としていましたが、都市部でも似たような制度があり、地域単位で食料が支給されていました。労働者には一月に大麦と小麦を合わせて三十ギャマ(一ギャマは約一キロ弱)、非労働者には二十六ギャマ、子供には八ギャマが支給されていましたが、到底足りる量ではありませんでした。砂糖などは贅沢品で、特別の許可証がなければ、買えませんでした。肉、バターなどは、闇市でしか手に入らず、北からの遊牧民たちからこっそりと物々交換で手に入れていましたが、見つかれば刑罰が待っていました。

 
Marc Riboud◆洋裁の仕事

 14歳になると、学校を辞めて、母の知り合いを頼り洋裁の見習いを始めました。家が貧しかったせいもあるのですが、両親がこれ以上中国共産党によるの教育を続けさせたくないと思っていたからです。私も何か手に職をつけたいと思っていたので、喜んで洋裁を習うことにしました。チベットの民族衣装であるチュバという着物やシャツ等の仕立てることを教わりました。最初の一年は給料をもらえませんでしたが、仕事に興味を覚え、一生懸命に働いていました。

 毛沢東が死に、鄧小平が政権に就くと政策が次第に変り始めました。壊された寺の再建が始まり、制限付きではありましたが宗教の自由も認められました。チベット人たちは、寺の再建への協力を惜しみませんでした。布施のために遠くからやってくる巡礼者も増え始めました。父も大工としてラサの三大寺であるセラ寺やガンデン寺に出向いて、無償で労力を提供しました。私も洋裁の先生と一緒にガンデン寺に住み込んで、仏画の外枠や仏像の服、お堂の垂れ幕を縫いました。ガンデン寺は、徹底的に破壊された寺のひとつです。おびただしい数の廃虚と化した壁の残骸が、今は無き当時の仏教の興隆を彷彿とさせるだけで、四千人近くいた僧侶は一人もいなくなっていました。私たちはテントに寝起きして、寺の再建のために必死で働きました。もちろん破壊した当人の中国政府からは一銭の援助もありませんでした。テントの中には、お釈迦様の仏像が一体置かれていました。その周りで朝晩僧侶たちが経典を読んでいました。これがガンデン寺の新しいお堂でした。

 18才になると私は父の紹介で結婚しました。夫も大工の仕事をしていました。まもなく女の子も授かり、一人前の針子として洋裁店へ就職もしました。給料は出来高制で、最も多いときで一日20元(約240円)でしたが、その中から食費7元と電気代4元を差し引かれていたので、手元にはわずかしか残りませんでした。

Marc Riboud◆独立要求デモ

 1987年になると、僧侶たちによるデモが続くようになりました。私は彼らの気持ちが痛いほどよく分かりました。全ての特権が中国人の手の内に握られていて、チベット人たちはいつもひどく虐げられている存在でした。ほとんどの店も中国人経営のため、チベット人は職を探すのにも一苦労していました。失業者が町中に溢れ、チベット人の乞食が町を徘徊していました。

 1988年の大祈祷法会では、その鬱憤が一度に爆発したような大きなデモが発生しました。もちろん私も参加しましたが、デモは予想以上に大きくなり、多くの人が逮捕されるという悲しい結果になってしまいました。少なくとも50人の死者が出て、逮捕数は2500件にも上ると言われています。私は運良く逮捕はされませんでしたが、逮捕された人々は誰もが拷問を受け、多くの人が死刑や終身刑、懲役刑を含む実刑を言い渡されました。私は強い憤りを覚えました。自分たちの国であるはずなのに、どうして自由や権利を主張することが許されていないのか。そして主張した結果、こんなにも苦しまなければならないのか。私は、こんな理不尽なことが行われていることを外の世界に伝えなければという強い思いに駆られていきました。何人かの仲間とともに私は活動を始めました。まず、ダライ・ラマ法王の講演テープを入手し、繰り返し聞きました。ダライ・ラマ法王が亡命し、チベットの自由のための運動を行っているということは私たちに強い勇気と希望を与えてくれました。きっといつか自由になる日が来る、そしてダライ・ラマ法王が戻って来る日が必ずやって来る、と私たちは信じて止みませんでした。そして、そのためにはどんなことでもやるつもりでした。

 1988年の大祈祷法会の際に逮捕され激しい拷問を受けた、4人の尼僧たちと接触する機会を得ました。彼女たちは、グツァ拘置所で7ヵ月間勾留された後、釈放されたばかりでした。私はビデオカメラを手にいれ、彼女たちにインタビューし、そのテープをインドにあるチベット亡命政府に送ろうと決心しました。彼女たちは皆、十八、十九才のまだ幼さが残る若い尼僧ばかりでした。インタビューは私の家で行いました。彼女たちは顔を隠そうともせず、静かに語り始めました。連日のように激しい拷問が続いたこと、電気棒で殴られたこと、そして電気棒でレイプされたことなどが彼女たちの口から聞かされました。あまりの恐ろしさに私は背筋が凍る思いがしましたが、それでも必死でビデオを回し続けていました。同様に、僧侶にもインタビューをしました。彼は1959年の中国共産党の侵略時から投獄され、30年もの長い間牢獄生活を送った人でした。それらを収めたテープを、インドへ亡命する人に預け、必ず亡命政府に渡してくれるようにと頼みました。

◆逮捕

 1989年7月30日のことでした。夕飯の支度をいつものようにしていた時のことです。突然、20人近くもの警官が家に押し入って来ました。彼らは私の名前を確認すると、即座に手を縛ると外に引きずり出しました。家の中では、警官たちが滅茶苦茶に部屋のいたるところをひっくり返していました。殴られているらしい父親の叫ぶ声が聞こえて来ました。娘は母親と一緒にジョカン寺を巡るバルコルにお参りに行っており、ちょうどいませんでした。

 そして、とうとうこの日から1年以上も、両親や娘に逢うことは出来ませんでした。警察は私の居場所を家族に一切教えなかったからです。前日に仲間の一人が逮捕されていたので、自分の逮捕も近いだろうと覚悟はしていました。重要な書類等は既に処分してあったので、どんなに探しても何も出てこない筈でした。けれども、両親は何も知らなかったので、非常にショックだったろうと思います。そして、娘はまだ3才になったばかりでした。

 グツァ拘置所に着くと、すぐに手錠と足枷がはめられ、尋問が始まりました。警察はビデオの件について詳しい情報を得ているようではありませんでしたが、私がダライ・ラマ法王の講演テープを所持していたことは知っているようでした。テープを貸した僧侶が拷問に耐えきれず、私の名前を言ってしまったようでした。警官はいつも4人でした。彼らはまず私を椅子に縛りつけると、電気棒でショックを与え続けました。気を失うまで電流を流し続け、気を失うと水を頭から浴びせました。幾度も繰り返されました。政治組織のメンバーの名前を彼らは聞きだそうとしましたが、私はどんなことをされても決して話しませんでした。

 尋問は、二日に一回行われました。尋問室に呼び出されると、4人の警官に囲まれ、朝から晩まで休むこと無く、尋問が続きました。本当に長い時間に感じられました。彼らは私を裸にすると、椅子に縛り付け、殴る蹴るの挙句、電気棒でショックを与え続けました。30分もの間、電流が流され続けることもよくありました。髪の毛が逆立ち、肉が裂けてしまうのではないかと感じる程強く引っぱられるのです。そして、胃にあるものを全部戻してしまい、血を吐き、鼻血が止まらなくなるのです。朦朧としてくる意識の中で、さらに辛いことが何度も行われました。彼らは、電気棒を性器の中に面白そうに突っ込み、私を凌辱したのです。

 私が何も言わないのを知ると、彼らは私を独房に入れました。独房には体をようやく横にすることが出来るだけのスペースとトイレ用に掘られた溝があるだけで、窓もベッドも寝具も何もありませんでした。食事は一日に二度、上から小さなパンが放り込まれるだけでした。独房にいる間も一日置きに尋問室へ呼び出されました。いつも突然の外の光に目が眩み、ふらふらする足取りで追い立てられながらやっとの思いで尋問室まで歩いていっていました。私はただひたすらダライ・ラマ法王に祈り続けていました。きっと、必ずダライ・ラマ法王が救って下さるに違いない。それだけが頼みで、そして私を生かせつづけていました。47日間を独房で過ごした後、元の監房に戻されましたが、窓があるというだけで何ら独房と変わり無いものでした。

 半年以上も勾留が続くと私は、精神的にも肉体的にも限界に近い状態になってしまいました。九ヵ月後にはもう歩けませんでした。裁判が行われましたが、それが何月だったかはっきり思い出せません。懲役十年の判決を受けました。私は抱えられたまま、裁判官からの判決を受け、そのまま拘置所に戻されました。弁護士も傍聴人も裁判所にはいませんでした。私の意識は朦朧としていて、体中痣だらけで、立つこともままなりませんでした。そのまま警察病院へ運ばれましたが、あまりの状態に医者も匙を投げる始末でした。

Marc Riboud◆亡命

 私は両親の元に帰されたようでした。気が付くと、両親が心配そうに見守っていました。娘もいました。拘置所の中で一番心配だったのは、なにより一人娘のことでした。私がこのまま死んでしまったら、娘はどうなるのだろうか、そんな心配で眠れない夜がよくありました。両親は、手首や足首の傷跡、首のところの大きな傷跡等を見て、私がどんな目にあったのか分かったようでした。両親は涙にむせながら、警察から私が危篤との連絡が入ったこと、治療を理由にどうにか引き渡してもらったこと、そしてチベット医学院の病院に入院させたこと等を話してくれました。両親との久しぶりの再会は大変嬉しかったのですが、治れば10年の懲役が待っている事を思うと心は晴れず、不安と恐怖で胸が押し潰されそうでした。

 両親は毎日のように、食事を持って来て看病してくれました。神経障害があると言われ、チベットの伝統的な薬を飲み、温泉治療も行いました。そして、治療の甲斐あって、ようやく少しづつ歩けるようになった頃のことでした。皆が寝静まった夜更けに友達がやって来たのです。彼らは、私に今すぐインドへ亡命するように勧めました。治ってしまえばさらにこれから10年間も監獄生活を送らねばならなくなる。今度こそ必ず死んでしまうだろう。再び中国人の手に落ちてはいけない。彼らは、着替える服も車も用意してあると言いました。私は果たしてヒマラヤを越えられるか心配でしたが、このままチベットに残れば間違いなく殺されてしまうだろうと思いました。けれども、娘を残して行くことは出来ません。例え私が途中死んでしまっても、娘は助かるでしょうから、きっと両親に私のことを伝えてくれる手がかりになるでしょう。私は友達にどうしても娘を連れてきてくれるように頼みました。

 逃亡用の服に着替えて、病院の裏口からそっと抜け出すと、そこに車が待っていました。中には何も知らずに眠っている娘もいました。車は静かに動きだすと、裏門から警備の目を潜り抜け、ラサの街の外に出ました。そして、西へと向かいました。5日後に22人の仲間と落ち合い、ヒマラヤの方へと歩き始めました。逃亡は過酷を極めました。私は何度も皆にもう歩けないから置いて行ってくれと頼みました。その度に皆に励まされ、やっとの思いでネパールの首都カトマンドゥに辿り付いたときには、ラサを立って既に2ヶ月が過ぎていました。

◆母の死とダライ・ラマ法王との謁見

 ネパールで1ヶ月程静養した後、チベット亡命政府のあるダラムサラに向かいました。ダラムサラでは、難民収容センターで保護されることになりました。そこには、他にも亡命してきたばかりのチベット人がたくさんいました。ようやく辿り着いてほっとしたのも束の間、私はラサ出身のチベット人からあまりにも悲しい事件を告げられたのです。母が亡くなったというのです。何も知らず中国とネパールの国境あたりを歩いていた時のことでした。母は私が捕まってからというもの心労のため心臓の病いを患っていたのですが、私が行方不明になったことで警官が両親を何度も呼び出し尋問したのです。母はもう耐えられなかったのでしょう。私はショックでただ呆然とし、目の前が真っ暗になってしまいました。

 その日は、ちょうど寺で法要が行われていて、ダライ・ラマ法王も儀式に参加してらっしゃいました。皆はその寺の周りを右周りに周りながら、数珠を手繰り祈り続けていました。私もその列に入ると周り始めました。ちょうど本堂の脇に来たときにダライ・ラマ法王のお姿が目に入りました。その瞬間、私はその場に泣き崩れてしまい、もう一歩も進むことが出来ませんでした。周りの人々が可哀相にという目で眺めていましたが、私は後から後から溢れてくる涙をどうしても止めることが出来ず、ただそのまま法王の方へ手を合わせ続けていました。やがてダライ・ラマ法王が気付いたらしく、お付きの僧侶が私の方へやって来ました。ラサから来たばかりであることを説明すると、ダライ・ラマ法王が話しをしたがっていることを教えてくれました。そして次の日法王との謁見が許されたのです。

 私は娘と一緒に謁見に向かいました。母の死をともらってもらうために、わずかばかりのお金を白い絹のカタとともにダライ・ラマ法王に差し上げました。ダライ・ラマ法王は、娘の頭を何度も撫でて下さり、優しく声を掛けて下さいました。私はチベットでのことを出来る限りお話ししましたが、途中で何度も声が詰まってしまいました。ダライ・ラマ法王は一つ一つの悲しい出来事に相槌を打って下さり、優しい言葉を掛けて下さいました。チベットでは法王にお会い出来ると来世の幸せが約束されると信じられています。私は地獄を抜けて今、法王のお顔を目の前にでき、これでもう大丈夫だと、そして母も無事に来世に生まれ変わることができたにに違いないと思わずにはいられませんでした。

Marc Riboud◆父の逮捕

 母が亡くなってから、父はひどく意気消沈し、家の中でふさぎ込む日々が続いたそうです。中国政府の嫌がらせはますます悪化する一方で、連日のように警官が見回りに来ていました。父は私がインドに亡命したことを人づてに知ると、亡命の準備を密かに始めました。家の家財道具の一部を手伝いに来ていた叔母のために残すと、残りを全て売り払いました。残った大工の仕事は仲間に引き継ぎました。そして1992年2月、巡礼とシガツェの親戚に逢いにいくと言ってラサを離れたのです。父はシガツェまで辿り着くと、そこでジープを借りて国境へと向かうはずでした。ところが、亡命の計画が政府に知れてしまったのです。父はシガツェで追いかけて来た警官に捕まり、ラサへ連れ戻されてしまいました。そして手持ちのお金を全て没収された挙句、サンイップ拘置所に連行されてしまったのです。叔母までもがグツァ拘置所に1週間も勾留されて尋問を受けました。家は隅々まで家宅捜査されたため、滅茶苦茶になってしまいました。父は、1年間拘留された後、懲役5年の判決を受け、ダプチ刑務所に移されました。家には叔母だけが残されました。叔母は日雇人夫として工事現場で働き、仕事が終わると近所の家の洗濯や食器の後片付けを手伝っていました。そうして得たお金で、日用品や薬、食料を買い、月に一度の面会の際に父へ渡してくれていたのです。

 ところが、その叔母が1993年に急死したのです。悲しいことに叔母の遺体をともらう者は誰もいませんでした。父が葬儀をどうしても行いたいと申し出ると、3日間だけ家に戻ることが許されました。3人の警官に囲まれて久しぶりに帰宅した父が目にしたのは、叔母の変り果てた姿でした。無理がたたったのでしょう。十分な葬式をやってあげられる筈はなく、儀式が終わるとすぐに刑務所へと連れ戻されました。チベットの習慣では、人が亡くなると49日までは一週間ごとに法要を行うことになっています。刑務所の中ではまったくできなかったと思います。さぞかし父は無念だったことでしょう。父は最初の1年は豚の飼育係りの仕事を与えられ、その後はガンデン寺の高僧ユーロ・ダワ・ツェリンと一緒に鶏の飼育の仕事をしていました。

 1994年、北京は2000年のオリンピック開催地に立候補しました。開催地をめぐって他国と拮抗する中、世界中から中国の人権問題に対して非難が高まり始めました。中国は、高まる非難に対して、何人かの政治犯を釈放することで世論をかわそうとしました。私の父も3年の刑期を残して11月4日に釈放されました。一緒にセラ寺の僧侶トプテン・ツェリン(71歳)とガンデン寺の高僧ユーロ・ダワ・ツェリン(66歳)も釈放されました。ユーロ・ダワ・ツェリンとトプテン・ツェリンは、1987年、イタリアのTV取材のインタビューに対してチベットの人権侵害や政治問題について語ったため、10年の懲役を下され、ダプチ刑務所で服役していました。

 父は、完全に自由の身になれたわけではありませんでした。毎日当局に出頭せねばならず、一日に一度、ジョカン寺に参拝に行くのが認められているだけで、その他の外出は一切禁じられていました。誰かが父を訪ねることも、誰かと話すことも全く許されていませんでした。父は逮捕された時に没収されたお金を戻して欲しいと頼んだらしいのですが、その訴えが認められたのかどうかは、私には定かでありません。

◆二度目の亡命

 父は再び亡命することを決意しました。密かにトプテン・ツェリンとユーロ・ダワ・ツェリンたちと会合を重ね、計画を練り始めました。どうにかお金を借りて600元(約7200円)を作ると、それをネパール国境までの道案内人であるブローカーに渡しました。

 1995年4月5日、父はラサを発ちました。途中で仲間31人と合流し、車はヤンパチェン、ダムシュン、ジャンナム湖を通って西チベットへ出ました。カイラース山近辺にて、車を降り、今度は徒歩でネパール国境へと歩き出したのです。途中で食べ物がなくなり、父たちは物乞いをしながら食を繋いでいました。そして、約2ヵ月後の6月18日、やっとネパール国境を越え、ネパールの地まで辿り着いたというのに、ネパール警察に見つかってしまったのです。ネパール警察は尋問を始め、何の許可証を持っていないのを知ると父たちを逮捕しました。逮捕された者の中には13歳以下の子供が5人もいました。最年少はドルジェ・プンツォクという5歳になる男の子でした。父たちを乗せた護送車は、カトマンドゥの留置所へと向かいました。父たちは、護送車の小さな窓からカトマンドゥの町並を悲しげに見ているしか術がありませんでした。誰かが、チベット亡命政府のカトマンドゥ支部が見えると叫びました。窓に皆が集まり、覗き込みと、チベット文字の看板が見えます。

「助けてくれ!俺たちをなんとか助けてくれ!」

皆、あらん限りの声で叫びました。けれども誰も出てくること無く、亡命政府の支部は空しく遠ざかっていくばかりでした。

 自由の地に辿り着ける筈だったのに、もうすぐ娘と孫に再会できるはずだったのに、年老いた父の胸はどれほどの絶望感に押し潰されていたことでしょうか。どんなに辛かったことでしょうか。仮釈放の身であった父は必ず再び刑務所に戻る運命にあることのを知っていた筈です。ヒマラヤのあの険しい峠を越えて、やっと辿り着いたというのに。後少しでダライ・ラマ法王にも会うことが出来たというのに。

 翌日19人が中国側に引き渡され、2日後の20日に父を含んだ10人がチベットへと送り返されることになりました。父たちはトラックに乗せられ、中国との国境であるダムへと移送されました。皆、悲しみに暮れた表情で外を眺めていました。なんとか、脱出を試みようとする者もいましたが、失敗した時のことを考えると躊躇せざるを得ませんでした。そんな中、ラトゥ寺のダワ(29歳)はトラックがスピードを落としたのを見計らって、監視人の隙を見て飛び降りたのです。彼は森のなかに即座に走り込みました。ダワは、夜中に人目を避けながら険道を走ってカトマンドゥまで辿り着き、その後ダラムサラに来ることが出来ました。私は彼から父の話を聞きました。父は孫娘の写真を大事そうに持っていたといいます。私と再会して家族3人一緒に暮らすこと、ダライ・ラマ法王にお会いすること等をよく彼に話していたそうです。特に孫に逢うことを本当に楽しみにしていたという事を聞いたとき、胸が強く痛みました。どんなに悔しかったことでしょう。

 父は、再びダプチ刑務所に入れられ、懲役6年の判決が下されました。その後、父がどのように刑務所で暮らしているのか何の手掛かりも無いまま一年が過ぎました。1996年8月1日、アメリカのワシントンDCから放送されているチベット語のラジオ放送局The voice of Americaから父が独房に入れられているという情報を得ました。父は64歳なのです。父の置かれている状況を思うと、いてもたってもいられません。今でも独房から出されたという情報は伝わってきません。出来ることなら私が代わってあげたい。毎日佛に祈り続けています。そして、外国の方々にもぜひ力になって頂きたいのです。どうか父を助けてください。貧しくとも、せめて普通の暮らしが出来るように力を貸して頂きたいのです。心の底からのお願いです。

(2001年、ソナムドカの父は仮釈放された。だが、日に一度公安局へ出頭する以外には、外出は禁じられている。家は当局に没収されたため、親戚に身を寄せているという。)

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

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