チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2010年6月27日
6月26日、国連「拷問の犠牲者を支援する国際デー」/尼僧ガワン・ワンドゥンの証言
このブログにアクセスして下さっている人の中には、昨日の法王横浜講演に幸運にも参加された方も多いかと思う。
(追記:石濱先生が横浜講演の詳しいレポートをされているのを発見。
http://shirayuki.blog51.fc2.com/blog-date-20100627.html)
ジェ・ツォンカパの「縁起讃」を講義されたとか、素晴らしいことだ。
ジェ・ツォンカパが空(中観帰謬論証派)の見解を美しい詩にして短く説かれたもの。チベットでは非常にポピラーなお経だ。
「縁起讃」はナーガールジュナの有名な「中論」の帰敬序である「八不」の偈から始まる。
「不滅、不生、不断、不常、不一義、不異義、不来、不出、
戯論の消滅というめでたい縁起のことわりを説きたもうた仏を、もろもろの説法者のうちでの最も優れた人として敬礼す」(中村元訳)
お聞きになられた方は「縁起=空、空=縁起」の話を少しは理解されたことでしょう。「愛」と「相互依存性」を常に意識することが幸せのカギというわけだ。
法王に直接会えることはもちろん素晴らしいことだが、何よりも仏教は説かれた言葉(法)を第一とする。よくよく何度も法王の説かれた言葉について、お互い考えてみましょう。
法王はこうして世界中に幸福の種を撒きながら遊行される。
で、法王や法王の言葉により、少しは幸せを感じられた方々は、次に少しは法王をはじめとするチベット人の現状を理解し、それぞれができる範囲で可能な限り「虐げられたチベット人たちを助けよう」と思ってほしい。
昨日は国連によって定められた「拷問の犠牲者を支援する国際デーInternational Day in Support of Victims of Torture」だった。
ダラムサラでは「9-10-3(良心の囚人)の会」主催で、昼間はニマ・ロプタで「中国の拷問政策」に関する討論会とツクラカンでの写真展、夕方には中国や世界の拷問禁止を訴え、今もチベット内の拘置所、監獄の中で日々拷問に曝されている人々の苦しみが慈悲の祈りの力により癒され、一日も早く解放されることを祈るキャンドルライト・ビジルが行われた。
「拷問の犠牲者」として、以下に一人の尼僧の証言を紹介する。
これはルンタ・ホームページ上の「(9人の)亡命チベット人たちが語るチベットの真実」の中で紹介されている。
話は私と高橋明美さんが聞き、高橋さんがまとめてくださったものだ。
(少しだけ長い)
写真は昨日の9-10-3の会主催の写真展より。
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■尼僧ガワン・ワンドゥンの証言
http://www.lung-ta.org/testimony/ngawang_wangdon.html
シェラップ・ガワンが亡くなってから、もう何年も経つけれども、一日たりとも彼女のことを忘れたことはありません。シェラップ・ガワンは、わずか17才でこの世を去りました。
私はロカ地方にある小さな村で、1977年に生まれました。私の生まれた村は、チベットの首都ラサからバスで北へ4時間程離れた貧しい村です。村人は、わずかな家畜と痩せた畑からできる農作物より生計を立てています。畑には大麦を植え、それを炒ったツァンパ(麦焦がし)が私たちの主食でした。村には学校が一つだけありました。三年間だけ通い、初等教育を受けることができましたが、村の子供たちは幼いころから、家畜の世話や農作業を手伝わなければならなかったので、学校に通える子供はわずかでした。どの家も貧しく、学校に通わせる余裕のある家はほとんどなかったのです。
◆ 出家
私は、14才の時にラサのミチュンリ尼寺にて出家しました。1991年のことです。両親は大変信仰深かったので、私が出家して尼僧として暮らしたいと話したときも、反対はしませんでした。シェラップ・ガワンも同じ年に出家しました。確か彼女が13才のときのことだと思います。ラサには尼寺が五つほどありますが、当時、すでに多くの尼僧たちがチベット独立のデモに参加し、逮捕されていました。デモに参加すれば、懲役刑を受けるのはもちろんのこと、拷問や厳しい強制労働を味わうはめになることは、みんな承知していましたが、それでもデモを行う者たちは絶えませんでした。私たちの寺からも、多くの尼僧たちがデモへと繰り出し、そして逮捕されていきました。私もいつの日にか、デモをすることがチベット人として当然の義務のように感じるようになっていました。
私たちは尼僧として尼寺で修行生活を送っていましたが、信仰の自由とは名ばかりでした。出家者は厳しく常に当局から監視され、出家者の数も制限されていました。私たちにとって唯一の心の支えであるダライ・ラマ法王への信仰は固く禁止され、写真を所持することも許されず、代わりに共産党教育の講義を寺で受けねばなりませんでした。全ての利権は中国人の手に握られていて、チベット人は自分たちの国であるというのに、中国人の許可がなければ、移動することですらままなりませんでした。1987年9月27日、デプン寺の僧侶たちが、ラサで初めてのチベット独立要求のデモを行うと、次々にデモが続くようになりました。そのほとんどは、僧侶や尼僧によるものでした。出家の身である私たちには、養うべき子供も家族もいないため、みんな喜んでチベットのために犠牲になることができます。シェラップ・ガワンも幼かったにもかかわらず、チベット独立のために行動するという意志は固く、そのためにはどんな犠牲を払うとも構わないと言っていました。
1992年2月3日、私とシェラップ・ガワンを含めた5人の尼僧、そしてセラ寺の僧侶1人、計6人でデモを行いました。チベット人のデモは過激なものでは全くありません。ただ、ラサの中心地にあるジョカン寺の周りの右繞道(パルコル)で「チベットに自由を!ダライ・ラマ法王万歳」と叫ぶだけなのです。
私たちが、パルコルでスローガンを叫ぶやいなや、すぐに公安警官たちが駆け付けました。デモはわずか数分のできごとでした。独立要求のスローガンを叫び始めてすぐに、私たちは警官に囲まれ、手錠をはめられ、後ろ手に縛り上げられました。警官たちは私たちを棍棒で殴り倒すと、トラックの荷台へとまるで荷物のように放り込みました。私たちは全く抵抗しませんでした。こうなることは、初めから覚悟していたことなのです。セラ寺の僧侶は頭から血を流していました。ひどく痛むのか、公安の派出所へと向かうトラックが揺れる度に、呻き声を出していましたが、話し掛けることはできませんでした。
公安の派出所では2時間ほど尋問を受けた後、グツァ拘置所に移されました。そこでは、それぞれ別々の監房に入れられました。私は僧衣を全部脱がされて、身体検査をされ、尋問室に連れて行かれました。グツァ拘置所での尋問や拷問の過酷さは有名で、私は最初から覚悟していましたが、遥かに想像を越えるものでした。公安警官が聞きたいことは一つでした。
「一体、誰がデモを煽動したのか」
私はいつも同じ答えを繰り返しました。
「みんなで話し合って決めたことだから、リーダーはいません。誰かに命令されたわけでもありません。自分たちの意志でやりました」
本当のことを言っているのに、彼らは決して納得しませんでした。弱音を吐くまいとがんばってはいたのですが、時にはあまりにも強い痛みに、叫んでしまうこともありました。その度に警官たちから、
「こんな目にあうのがいやだったら、どうしてデモをしたのか」
と顔に唾を吐きかけられ、ののしられました。また、彼らは電気棒を使って拷問しました。電気棒はいろんなところに押し付けられ、その度に肉が裂けてしまうような激しい痛みが体中に走りました。その後、濡れた皮の鞭で体中を殴られました。私が何も答えないのをみると、今度は凶暴な犬を放すぞと脅かされました。彼らは鞭で顔を殴りつけ、体中を蹴りあげました。拷問は数時間続きました。
散々殴られた後、外に連れていかれ、拘置所の塀にむかって手をあげたまま立っているように命令されました。体中が痛み、あげた手はまもなく痺れてきましたが、下ろすと看守から殴られました。みんなはどうしているのだろうと仲間のことだけが気掛かりでした。何時間くらいそうしていたでしょうか。やがて、トイレに行くことが許され、振り返ると、少し離れたところで同じように仲間もそうさせられていました。ひどく殴られたらしく、みんな顔を腫らしていました。日が暮れてくるに連れて、気温は下がり、体中がいたみ、私は涙が止まらなくなりました。外はいつの間にか真っ暗になっていました。仲間の一人が拷問を受けて、さけんでいるのが聞こえました。どんなにひどい拷問を受けても私はしゃべりませんでした。日がとっぷり暮れた後、私は真っ暗な独房に入れられました。誰もいない真っ暗な部屋で、時間はまるで一生続くかのように長く感じました。ときどき看守がドアを叩くたびに、また尋問に呼ばれるのかとゾッとしましたが、私の返事を確かめると去っていきました。3日後、トイレ用のバケツを空けるために、はじめて外に出ることが許されました。5日後から再び尋問が始まりました。同じ質問が繰り返されました。毎回殴られたわけではありませんが、拷問道具は常にテーブルの上に並べてありました。
3ヶ月後にようやく独房から出され、皆と一緒の監房に入れられました。監房にはトイレがついているわけではありません。隅に置かれたバケツがトイレでした。毎朝、一度だけ空にするだけだったので、監房の臭いはひどいものでした。
その後、ティサム刑務所に移されました。そこでは労働をしなければなりませんでした。グリーンハウスで野菜を育てる仕事があてがわれました。野菜に肥料を与えるのに、トイレの穴に入り、素手で糞尿を運び出さねばならず、慣れるまでは何度も吐き気を覚え、大変辛い思いをしました。手も服も汚れるのですが、作業の後洗い流すような水は与えられませんでした。
やがて、リーダーとみなされた尼僧プンツォク・ヤンキには7年の懲役刑が下り、セラ寺の僧侶と他の尼僧たちには6年の懲役刑が下り、ダプチ刑務所に移送されました。私とシェラップ・ガワンは、18歳以下の未成年だったにもかかわらず、3年の懲役刑を受けました。
刑務所での生活条件は非人間的で、辛い労働と貧しい食事のため、私はやがて体を壊してしまいました。刑務所には刑務医がいるのですが、医者とは名前だけでほとんど何もしてはくれませんでした。私の体の具合は悪化する一方で、あるとき仕事中に倒れてしまいました。医者が診断をし、わたしはすぐに病院に運ばれました。治療を受けた後、刑務所に戻されたのですが、ずっとその間意識がなかったため、何も覚えていません。看守たちは私がわざとやっているのだと、食事をむりやり口に詰め込んだりしたそうです。
やがて、私の具合はとても悪くなり、ほとんど動くことも食べることもできなくなりました。再び、病院に運ばれ、肝臓が悪いということですぐに手術を受けました。7日後に抜糸をすることになっていたのですが、傷口は化膿して膿んでおり、痛みは耐えがたいものでした。この抜糸の日に看守が私を刑務所に移送しにやってきたのですが、傷口が化膿しているのをみると、後三日だけ病院にいてもいいと言いました。
病室は刑務所の独房とまったく変わりませんでした。とても小さく、暗く、ほとんど昼か夜かわからないほどでした。この病室に17日間入院した後、刑務所の監房に戻されました。二ヶ月たっても、傷口は化膿したままで治らず、トイレに行く度に激しい痛みに襲われました。どんなに具合が悪くても、刑務所に戻された日から私は働かなければなりませんでした。無理をして仕事をしている最中に、鼻血が止まらなくなり、吐いてしまいました。それをみた看守がようやく一ヶ月間作業を休むことを認めてくれました。
刑務所では早朝5時から広場に集合して、軍隊の訓練のような運動をさせられました。これは体の具合の悪い者も例外ではなく、グランドを走ったり、長時間整列して立っていたりしなければなりませんでした。少しでも動けば、その場で殴られるのでした。すべての号令は中国語でかけられ、中国語がわからず、遅れてしまう尼僧たちは、いつも攻撃の的でした。
◆ 尼僧たちの歌
ティサム刑務所での生活も2年が経ち、1994年8月10日、夜の10時頃ことでした。私たちは歌を歌いました。チベットが独立する日を夢見る歌、監獄のつらさを歌った歌、そしてダライ・ラマ法王をたたえる歌を。シェラップ・ガワンも一緒に歌いました。監獄では政治囚たちは看守にみつからないように、こっそりとよく歌を歌います。誰が作ったのかは知らないのですが、政治囚たちは歌詞をよく知っていました。新入りの尼僧たちに、刑務所ですでに服役している尼僧たちが歌を教える。監獄の長い夜はよくそうやってふけていきました。
ここダプチ刑務所からは空しかみえない
空を流れる雲たち
それが父や母だったら、どんなに素敵だろう
監獄の友たちよ
わたしたちはノルブリンカの花
どんな雹や霜だろうが
わたしたちのつないだ手を離れさせることはできない
いつか必ず雲の後ろから太陽があらわれる
だからそんなに悲しまないで
たとえ太陽が沈んでしまっても
こんどは月が照らしてくれる
だからそんなに悲しまないで
その晩、私たちは隠れて歌ったりはしませんでした。看守に聞こえるようにわざと大きな声で歌いました。そんなことをしたら、どんなことになることかぐらい分かっていました。私たちは、決して看守たちの言いなりにはならない、自由を求める意思を決して捨てはしないと訴えるために、敢えて歌ったのでした。
まもなく、看守たちが部屋にやってきて、私たちは全員外に出るように命じられました。そこで、私たちは精神異常の囚人用の小さな独房に入れられるといわれました。私たちは大きな声で独立要求のスローガンを叫び始めました。看守たちは憤り、私たちを殴り倒しました。そして、ひどい暴行がはじまったのです。私たちは外の広場に引きずりだされると、看守たちに散々殴られました。私たちは手錠をはめられており、あるいは後ろ手にしばられた状態で、看守たちの思うがままでした。あまりにもひどい暴行に、ほとんどのものが意識を失っていました。私は看守から肝臓あたりを思いっきり何度も蹴られました。動けなくなったのを知ると、看守たちは靴でこれでもかというほど、頭を思いっきり踏みつけられました。背中を蹴り上げ、鞭や棒で全身を散々なぐられました。倒れるたびに、起き上がらされ、ひざを立てた状態の姿勢でいるようにいわれました。何人かの尼僧たちは血を吐き、血の海の中で動かず横たわっていました。そんな状況の中でも、看守たちはわずかの同情もみせてはくれませんでした。倒れている尼僧たちにむかって唾をはきかけ、死ぬ振りをするのはやめろといって殴りつけるのでした。それは一晩中続きました。
翌朝、三人の尼僧を除いて、私たちはそれぞれ小さな独房に入れられました。その三人は具合がとても悪かったため、監房にもどされたのです。私は小さな独房に一週間もいなければなりませんでした。部屋はほんとうに小さく、食事を投げ込むだけの小さな穴があるだけで、真っ暗でした。一畳程しかないその牢獄には、トイレ用の溝がある以外、寝具もベッドもありませんでした。
一週間後にふたたび尋問のために、外に連れ出されました。尋問の間、ずっとひざをついた姿勢でいなければならず、そして、電気棒を顔にあてられました。髪をつかまれて、部屋中をひきずりまわされ、壁に強く頭をぶつけられました。そして、体中を蹴りつけられ、強く踏みつけられました。拷問は何時間も続きました。私は鼻からも口からも血を流し、囚人服は血だらけでした。耳は何度も激しく引っ張られたため裂けてしまい、血が止まりませんでした。再び、独房に戻され、そこで一ヶ月過ごさねばなりませんでした。その間、何度も同じような拷問をうけねばならず、看守から呼び出された瞬間に体が震えてしまい、尋問室までまっすぐ歩ける状態ではありませんでした。
一ヶ月後にようやく監房に戻され、久しぶりにあったシェラップ・ガワンはすぐには誰だかわからないくらいに変わっていました。彼女の顔は腫れ上がり、変色していました。言動もおかしくなっていました。記憶もちぐはぐになり、変なことを口走ったりするようになりました。いつも背中や腎臓、胸の痛みを訴えていました。食欲も落ち、最後には何も喉を通らなくなったのです。よく労働作業中に吐いたり、倒れたりしました。看守たちは彼女の容態の悪さを知りながら無視をしていました。何度も同じ部屋の尼僧たちが看守に頼んでようやく、シェラップ・ガワンが病院で診察を受けることが許されました。でも、少し回復したかと思うと、刑務所に戻されてしまいました。また、ガワン・ニィドルという尼僧も病気で衰弱したため、刑期を終えることなく仮釈放されました。ですが、これは刑務所の態度が軟化したせいではありません。ただ、刑務所で死んでしまって責任をとることになっては困ると思ったからでした。
その後も労働作業は毎日のように続きました。私たちは割り当てられた仕事を時間内に終えなければ、食事をもらうことができませんでした。ノルマをこなすためには、一分たりとも休む時間はありませんでした。何度もめまいを覚え、倒れそうになっても、看守は決して休憩することをみとめてくれませんでした。
1995年2月2日、私とシェラップ・ガワンは刑期を終え、村に戻りました。家族との再会は決して楽しいことばかりではありませんでした。ティサム刑務所に服役している間に、私の父が亡くなっていたことを告げられました。家族は私が悲しむだろうと、釈放されるまで教えてくれませんでした。しばらくしてシェラップ・ガワンに手紙を書きましたが、返事は来ませんでした。数カ月後、彼女が4月17日に亡くなったという知らせを受けました。
私は彼女の家を訪ねました。家には残こされた両親だけがいました。私たちは何も話すことができず、ただ泣いてばかりいました。釈放後、シェラップ・ガワンはラサの病院に入院したけれども、容態は好転しませんでした。そして、約2カ月後の4月17日、彼女は息を引き取りました。痛みで叫びつづけていたとも聞きました。まだ17才というのに、苦しみながら死なねばならないなんて。シェラップ・ガワンを鳥葬した人はこう言ったそうです。「こんなにひどい状態の死体は今まで見たことがない。まだ若いのに、腎臓も肺もボロ布のようだったよ」と。
私たちと一緒にデモをした、もう一人の尼僧も亡くなりました。プンツォク・ヤンキは、逮捕された時、19才でした。7年の懲役刑を受けて服役していたのですが、1994年6月4日に亡くなりました。彼女も1994年2月11日に仲間たちと一緒に歌を歌い、激しい拷問を受けたのです。こうして、仲間の二人が拷問によって亡くなりました。私は寺に戻ることを許されなかったので、仏教の修業と勉学を続けようとインドに亡命することにしました。死んでしまった二人のことを外の世界に伝えねばという思いもありました。ヒマラヤを越えるのは容易ではありませんでした。体の弱っていた私は、道程のほとんどを仲間の背中におぶってもらわねばなりませんでした。
釈放されてから、もう何年も経ちますが、いまだに拷問の後遺症に悩まされています。特に腰と腎臓が悪く、先月も入院していました。どうか、チベットがこんなにも悲惨な状況であることを忘れないで欲しいのです。本当に心からのお願いです。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)