チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2010年6月22日
色受想行識皆空あるいは極楽鳥
今日は金沢で、法王が「般若心経」についての講義をされたはずだ。
「照見五蘊皆空、度一切苦厄」の話だが、この中「五蘊(五つの集り)」は中々解りにくい仏教用語だ。
きっと法王が「五蘊」については説明されたと思うので、下手な解説はよしにして、今日は一つ、この「五蘊」を比喩と共に説かれた、仏の直説を紹介する。
そのまま、経典のコピーを紹介してもつまらないので、一緒にいつものように野鳥の写真を添える。
今日の鳥は普通じゃない。この辺でもっとも美しく、英語名には「パラダイス」が付くほどの極楽鳥だ。
今までこの白いオスは図鑑の中でしか見たことがなく、長らく出会いを恋焦がれていたのだ。
その真っ白い極楽鳥が、法王のTCVでの法話を訳している時、突然窓の前に現れ、それから数日間何度となく現れた。
この鳥と同じカササギヒタキ科に属する鳥が日本にもいる。三光鳥と呼ばれ、オスの尻尾が長いのも同じだが、色が違う。
日本に夏鳥としてスマトラ辺りからやってくるその鳥は頭部から頸、胸は黒く、紫色の光沢がある。他の上面は赤紫色の光沢がある褐色で、下尾筒は白い。
この鳥は「フィチイ、フィチイ、ホイホイホイ」とさえずる。昔の人はこの声を「月、日、星」と聞いて「三光鳥」としたそうだ。「フィチイ(月)、フィチイ(日)ホイホイホイ(星星星)」と言うわけだ。昔の日本人のセンスは冴えてたようだ。
この辺りにいる三光鳥は英語で「Asian Paradise-flycatcher」と呼ばれ、色はメスが栗色でオスが白。オスの尾羽は長くリボン状に伸びる。もっとも、三歳までのオスはメスと同じ色という。本によればオスは長い飾り尾羽を持っていることになっているが、この飾り尾羽を持たないオスも見つけた。オスの飾り尾羽は「渡り」の前には抜けると日本の三光鳥の説明にあるが、この辺の種にこれが適応できるかどうかは定かでない。
とにかく、この白いオスが枝から枝へと飛びまわる様は、まるで小さな、まぼろしの白い天衣(カタ)が、空中に遊ぶように、漂い、舞っているが如くに見え、特別の感慨をもたらすのだ。
なんて、大袈裟になって「まぼろし」を追いかけるという典型的な例だね、私は。
過たぬ縁起が現れた、まぼろしのこの世はほんまに美しい!
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阿含経、「実践に関する章」その三「ありのままに見ること」より
訳・山口益
ある時、世尊はアヨッジャー国にあるガンジス河の岸辺に住んでおられた。
そこで、世尊は比丘たちに告げたもうた。
「比丘たちよ。たとえばこのガンジル河が大きな泡のかたまりを生起するとしよう。眼有る人は、これを見、静観し、ありのままに観察するとしよう。かの人がこれを見、静観し、ありのままに観察するとき、空無にこそ見え、空虚にこそ見え、実なきものにこそ見えるだろう。比丘たちよ、泡のかたまりに、どうして堅実があろうか。
比丘たちよ、ちょうどそのように、凡そ色(物質)にして過去せるもの、未来のもの、現在のもの、内なるもの、外なるもの、粗大なもの、微細なもの、劣れるもの、勝れるもの、遠きにあるもの、近きにあるもの、それを比丘が見、静観し、ありのままに観察する。かれがこれを見、静観し、ありのままに観察するとき、空無にこそ見え、空虚にこそ見え、実なきものにこそ見える。比丘たちよ、色において、どうして堅実があろうか?
比丘たちよ、たとえば秋季に密雲あって天が大雨を降り注ぐ時に、水面に水泡が生じ、かつまた滅するようなものである。眼有る人はこれを見、静観し、ありのままに観察するとしよう。かれがこれを見、ありのままに観察するとき、空無にこそ見え、空虚にこそ見え、真実なきものに見えるであろう。比丘たちうよ。そのように凡そ受にして、過去せるもの、未来のもの、現在のもの・・・乃至…遠くにあるもの、近きにあるものがあるが、比丘はそれを見、静観し、ありのままに観察する。かれがこれを見、静観し、ありのままに観察するとき、空無にこそ見え、空虚にこそ見え、真実なきものにこそ見える。比丘たちよ、どうして受に堅実があろうか。
比丘たちよ、たとえば夏季の最後の月の日中時に、かげろう(陽炎)が立つときに、眼有る人がこれを見、静観し、ありのままに観察するとしよう。かれがこれを見、静観し、ありのままに観察するとき、空無にこそ見え、空虚にこそ見え、真実なきものにこそ見えるだろう。・・・乃至…比丘たちよ、陽炎に、どうして堅実があろうか。
比丘たちよ、そのように凡そ想にして・・・乃至・・・。
比丘たちよ、たとえば人あって、堅材を欲し、堅材を求め、堅材をさがし求めて出かけて行き、鋭利な斧を持って林の中に入るとしよう。かれは其処で、大きな芭蕉の幹が真直ぐで新鮮で、巨大な高さのを見るとしよう。そしてかれはその根を伐採するとしよう。根を伐りおとして木の尖端を伐採するとしよう。尖端を伐りおとして樹皮を剥ぎとるとしよう。かれが樹皮を剥ぎとるとき、樹膚をすら得ることはなかろう。いわんや核をや。
眼有る人はこれを見、静観し、ありのままに観察するとしよう。かれはこれを見、静観し、ありのままに観察するとき、空無にこそ見え、空虚にこそ見え、真実なきものにこそ見えるだろう。比丘たちよ、どうして芭蕉の幹に核があろうか。
比丘たちよ、このように凡そ行にして過去せるもの、未来のもの、現在のもの・・・乃至・・・遠きにあるもの、近きにあるものがある。比丘がこれを見、静観し、ありのままに観察するとき、空無にこそ見え、空虚にこそ見え、真実なきものにこそ見える。比丘たちよ、どうして行に堅実があろうか。
比丘たちよ、たとえば手品師あるいは手品師の弟子が、大道において手品を見せるとしよう。
眼有る人はこれを見、静観し、ありのままに観察するとしよう。かれがこれを見、静観し、ありのままに観察するとき、空無にこそ見え、空虚にこそ見え、真実なきものにこそ見えるだとう。比丘たちよどうして手品に真実があろうが。
比丘たちよ、このように凡そ識にして過去せるもの、未来のもの、現在のもの・・・乃至・・・遠きにあるもの、近きにあるものがある。比丘はこれを見、静観し、ありのままに観察する。かれがこれを見、静観し、ありのままに観察するとき、空無にこそ見え、空虚にこそ見え、真実なきものにこそ見える。比丘たちよ。どうして識に堅実があろうか。
比丘たちよ、有聞の聖弟子はこのように見て、色において厭い、受においても、想においても、行においても、識においてもまた厭う。厭うて離欲する。離欲より解脱する。解脱して解脱しおわったという智恵がある。更にこの状態に生まれることはないと知る」と。
世尊はこれを語りたもうた。善逝はこれを語って、師は更にこう語りたもうた。
色は泡沫のあつまりの如し
受は水泡の如し
想は陽炎の如し
行は芭蕉の如し
識は手品の如し
日種族の(世尊の)所説なり。
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ブッダ自身が灼熱のインドの大地を遊行する様が思い浮かばれる。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)