チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2010年6月16日
法王と一緒に葉っぱをお皿に食事会
法王の日本ご訪問も間近。
だから、今日も法王の写真を沢山載せよう。
昨日、午前11時、ダラムサラ、ツクラカンの前庭にダライ・ラマ法王が、お出ましになられた。
法王をお迎えして、チベット人が多く住むマクロード・ガンジ(上ダラムサラ)の町にあるインドやチベットの様々な市民団体が主催する「ダラムサラに来られて50年になる法王に感謝を示し、健康と長寿を願うという催し」が行われた。
町の団体とはインド人側は地元のインド・チベット友好協会、タクシー協会、ホテル協会等。
チベット側はウ・ツァン協会、カム協会、アムド協会。
まずはじめに、法王の目の前でインド式の護摩が焚かれた。
この護摩供養は法王の健康と長寿、及び他のチベット人全ての健康と幸福、意願成就を祈願するというものだった。
昨日は天気が良かった。朝から日差しが強かった。
そんな中で目の前で大きな火を焚かれて法王は少々、引き気味。
後で行なわれたスピーチの中で法王は「今日はこうして、地元のヒンドゥー教徒の人たちが我々のために、護摩を焚いて下さった。
この護摩を焚く(アグニを捧げる)という供養は我々チベットの密教においても全く同じように行われる。
護摩を神仏に供養することにより“素早く善なる目的が達せられる”と言われている。
本当にありがとう。
ま、今日は天気が良くて、少し暑い、そんな時に護摩を焚くと、もっと暑くなる、ちょっと大変、ということはあるがな、ハハハハハ、、、」とコメントされた。
—————————
我々チベット人は亡命者となって51年になる。このダラムサラに来てから、もう50年以上になる。
この間、一般的にはチベット人はどこへ行って住もうと、その地域の人たちと仲良くやってきた。
ちょっとした問題が確かに起こったことはある、そういうこともたまにはあるだろう。
インドの中だけでなく、スイスにも60年代からチベット人は移住したが、みんな地元の人たちと非常に仲がいい。その他アメリカ、カナダ、オーストリアとかどこでも地元の人たちはチベット人を好きになっている。
内地のチベット人たちは恐怖や不信の状況下に暮らしているにも関わらず、チベット人は元来やさしいのでみんな好きになっているではないか。沢山の中国人もチベット人を好きになっている。
チベット人は周りの人たちがなぜチベット人を好きになるか、という理由、根拠を知っておくべきだ。
チベット人は金持ちだからと言って、好かれているわけじゃない。
チベット人はよくものを知っている、特別に知識が豊富だと言って好かれているわけでもない。
また、チベット人は特別カッコイイとかいう理由で好かれているわけでもない。
そうではなくて、チベット人の心根が一般的に言って、正直で、謙虚で、誠実で、時に人に害を与えることもあるかもしれないが、それでも心の中でそのことを良いとは思わず、後悔するというようなものであるからだ。
どこに住もうと正直に生き、人をだまさず、害心を持たず、愛情深いなら、こういう人を動物だって好きになるであろう。
これが、チベット人の価値だ。
だから、チベット人は誰でも、自分たちの価値をはっきり認識しておくことが大事だ。
中にはちょっとばかり生活が豊かになって来た人もいるかもしれないが、チベット人としてのこの心の価値を失ってしまえば、何の意味もない、台無しだ。
だから、我々はチベット人の真の価値を認識して、生活の仕方は変わるであろう、経済的な変化もあろう、その中で、周りの人に好かれるチベット人の心の価値に目覚め、常に気を付け、それを決して衰えさせないということが非常に大事なことだ。
我々は先祖代々伝えられてきた善なる資質を衰えさせることなく、その精髄を守り、その上に21世紀の知識と技術を修得し、時代に追いつくことが大事だ。
もう何回も言ってきたことだが、我々は亡命の身となり、流離いの人となり、一方で悲しい状況の中にある。
しかし、一方で復とない機会を与えられていると考えることもできる。
この好機を十分に活用するための支えを与えてくれているのは、主にはインドの中央政府や地方政府だ。
しかし、実際には多くを日々こうして接している地元の人たちの支えに依っているのだ。
だから、ここで再び、インドのみなさんへ、特に地域のみなさんへ、また今日の食事を用意して下さった人たちに、お礼を言いたい。
今日は特別にこの後、施食会(ストゥン)があるという。
これはインドに昔からあるよい慣習だ。
かつてシャカムニ・ブッダもこうして何度も食事を施されたであろう。
さらに、ナーガールジュナやアーリアデーヴァをはじめとする、我々の智慧の目を開かせて下さった、ナーランダ大学の賢者たちも(チベットの伝承においては、この二人もナーランダ出ということになっている)このような布施を受けながら命を保っていたであろう。
だから今日は彼らのそのような生活を思い出させてもらういい機会になろう。
時に、今の我々はかつてシャカムニ・ブッダやナーランダの17人の賢者たちが味わったことのない食べ物も食べている。
彼らが食べたことのない食べ物を食べることができるとは、非常に運がいい!ハハハ、、、
食事はみんなの分もあるのか?
(はい、全員分用意してあります)
そうか、みんな食べれるそうだ。
腹の準備はできているか?
私は腹が減った。準備ができているぞ。
ハハハ、、Thank you!
法王がみんなの前で一緒に食事をされるということは稀だ。
ダラムサラのチベット人にとってはこれはまたとない、観音菩薩の食事風景を観察する好機となった。
チベット人は法王が笑いながら元気よさそうに食事を摂られるのを前にして、手を合せたりしていた。年よりの中には涙を流しながらじっと見入っている人も沢山いた。
地べたに座り、みんなと一緒に葉っぱの上のインド飯を手で食べていた、右から、亡命政府の外務大臣、防衛大臣、保健大臣。
この前、ミス・チベットで騒いだ、ロプサン・ワンギェルもいつものピンク・シャツを着て、宴会に加わる。
この日、ツクラカンでただ飯にありついた人の数は1000人ほどか?
6種類ぐらいのダル豆カレーが葉っぱの上に配られた。
法王の食事も同じ見たいだった。
法王以外はみんな手で食べていたが、法王は残念ながらスプーンを使われていた。
この日、プジャを仕切っていたヒンドゥー教の司祭たちと記念写真。
それにしてもインド人は濃いね。
もっとも、何だか、我々は普段チベットのタンカに書かれた姿から昔のインドの賢人たちを想像するけど、ブッダをはじめ、ナーガールジュナとかアーリアデーヴァとか、チャーンドラキールティとかシャーンティデーヴァとか、アティーシャとかパドマサンバヴァとかも今で言うインド人だから、ほんとうはこの法王の周りに写っているインド人と同じような濃い顔つきだったのでしょうね。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)