チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2010年6月14日

ダライ・ラマの仏教講座/TCVホール

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2.6.2010 TCV ホールできれば日曜版として昨日載せるつもりだった、仏教シリーズ?の一つ。

以下、6月2日TCVホールで行われた、ダライ・ラマ法王のチベット人学生を対象とした「仏教概論講座」の一部を訳したもの。

法王はこの日、二つの偈を基に仏教を要約して説かれた。

最初の一偈
སྡིག་པ་ཅི་ཡང་མི་བྱ་ཞིང།
དགེ་བ་ཕུན་སུམ་ཚོགས་པར་སྤྱད།
རང་གི་སེམས་ནི་ཡོངས་སུ་འདུལ།
འདི་ནི་སངས་རྒྱས་བསྟན་པ་ཡིན།

不徳な行ないを一つも為さず
徳を円満し
己の心を完全に統御する
これが仏の教え

このお経འདུལ་བ་ལུང་རྣམ་འབྱད།の一節を解説することで、修行の要点を要約された。
(この部分略)
次の一偈に入り、以下のように説かれた。

———————————————————————-

ではどうやって心を制御すべきかと言えば。
「縁起の見解に依り、根本から心を制御すべき」と説く。
そこで、

法王སྐར་མ་རབ་རིབ་མར་མེ་དང།
སྒྱུ་མ་ཟིལ་བ་ཆུ་བུར་དང།
རྨི་ལམ་གློག་དང་སྤྲིན་ལྟ་བུ།
འདུས་བྱས་ཆོས་རྣམས་དེ་ལྟར་ལྟ།

現象界というものは、
星や、目の翳、燈し火や、
まぼろしや、露や、水泡や、
夢や、電光や、雲のよう、
そのようなものと、みるがよい。

(རྡོར་རྗེ་གཅོད་པ།金剛般若経・中村元、紀野一義訳)

と、ここに比喩を使って、心を制御する方法が見解の側面から説かれている。
仏教では間違った見解として:不浄を浄と見、苦を楽と見、無常を常と見、無我を我と見るという4つを上げる。この4つは苦しみの因となる。この間違った4つの見解を無くすためには、正しい4つの見解を得なければならない。もっとも、ここでいう無我は粗いレベルの無我だが。何れにせよ、究極的には、すべての現象の自性は空であるという正しい見解を得ることにより初めて実現され得る。

この一偈では空見が比喩をもって示されている。この一偈は全ての仏教学派が共に引用するものだ。だから、それぞれの学派の空観に従い、それぞれ微妙に異なった解釈が行なわれる。この一偈は「金剛般若経」の中にある。

カルマ意味はまず、最初に「星(カルマ)」というは、空に浮かぶ星のことだが、星は太陽が沈んだ後に初めて現れる。そして我々は闇の中にその小さな輝きを見る。しかし、太陽が昇っている間、「星」の姿はない。
このように、我々が自分と他人、善と悪、輪廻と涅槃とかいうも、すべて、分析しないときにはあるように見えるが、分析し、その実際の有様を正しい智によって、その究極の実体を見つけようとすると、見つけられない、求められない。

「中論」(ナーガールジュナ著)の中に「諸仏は二諦に依って、衆生のために法を説く。一つは世俗諦、もう一つが勝義諦」と説かれ、この二つが一つの現象(教え)の二つの側面であると説明される(約教の二諦説)。一方「入中論」(チャンドラキールティ著)の中では「現象の虚実性を見たものは、現象を二つの自性として捉える」と説かれる(約境の二諦説)。正理の分析を受けない時の世俗の自性と、正理智により分析されたのちの勝義の自性というように、ものごとには二つずつの自性があるとされる。

このことを「星」に例えたのだ。正理の分析を伴わない心とは、無明とその薫習(習慣性)に侵された心のこと。そこには様々な現れが生じる。対象は実体的に現れる。空を直接体験する人の無対象の禅定以外の心は、すべて惑わされた心と呼ばれる。無明に侵された心ばかりだ。この闇と等しい無明の中にある心には、世俗の現象が「星」のように、様々な姿とともに現れる。その同じ心という空(そら)に、以前暗闇に「星」が沢山見えていたそこに、存在の有様を正しく分析する智という光が満ちることによって、様々な「星」の現れが消え、自性が消え去っただけの、空性一味の虚空という現れが生じる。「星」に譬えられる概念の現れが消え、空性(トンバニ)の現れが生じる。これが、太陽の光により「星」が消え、一つも見えなくなるという比喩よって現わされている。
「星」というはこのことだ。

ラプリク次の「目の翳(ラプリク)」は、実体論者の以下のような反論に対する答えとして使われる比喩だ。
「星にも色んな違いがあり、我々はそれを識別することができるではないか。心の対象としての現象は対象側から客観的な存在として特別の自相を持って現れるではないか。我々を含めた、実体論者から世俗レベルに実体を認める学派まで、すべて、もの(事物、事象)は真実存在であると主張する。世俗は成立している。ほら目の前にこのように現れ出ているではないか」と言って指で、その対象を指し示したりする。彼らの心は遠い昔からずっと対象が実体的に現れ続けてきたという習慣性に侵されている。そこで「ほら、ここにあるじゃないか」と根拠・基体として指さすものがあると思っている。「対象が自相をもって現れることはずっと前からあたり前のこととして世間に知れ渡っているではないか」という。

これに対し、我々は「対象があちら側から現れているように見えるからと言って、本当に対象側に実体があるわけではない」と主張する。「対象を見る側の心が、無明とその薫習により侵されているから、そのような現れが見えるだけだ」という。もちろん、無明から自由になった阿羅漢の心にも現れはある。これは無明の薫習からまだ自由になっていないので微細な現れがあるのだと説明される。
無明とその無意識の習慣性に侵されている、騙された心には「無明により真如が覆われているのが世俗」と言われるように、現れはあるが、それは、無明に侵された心の上に現れているだけであって、本当にあちら側に何かが有るわけではない。

例えば、それは「目の翳(ラプリク、時に眼病)」により目が侵されている人には、翳が見えたり、髪の毛が降るように見えるのと同じだ。目が正常な人にはその現れはない。
例えば、目にゴミでも入った人には向こうに黒っぽいものが見えることもあろう。向こう側から翳が現れるように見えるが、これは器官としての目に問題があるのであって、あちら側に何かがあるわけではない。眼医者がそのゴミを除けば、その現れも消え去る。物もらいとかになり、目の前に色んな映像が現れることもあるが、眼病が治った後には何の現れもない。このように、ものはあちら側に実体的に存在しているように見えるが、それは見る側の心に問題があってそう見えているだけであり、本当に対象側にものが実体的に存在しているわけではない。

もしも、対象であるものが実体として存在するなら、分析智により、それを探すことにより次第にその姿が明らかとなって行くべきだ。例えば「宝行王正論」(ナーガルジュナ著)の中で「蜃気楼が、もしも本物の水であるならば、近くにいる人に見えないのはどうしてか?」と言われているように、ものに自性(実体・真実存在)があるならば、分析により、近づくことによりその姿が次第に明らかになって行くはずだ。しかし、ものの実体は正理智により分析すればするほどに、ますます遠く消え去っていく。

この「星」や「目の翳」の譬えのように、ものは目の前に昔からあたり前のように現れているが、現れのようにものは存在しているのかといえば、答えはそうではない。ものは自体を持ってあちら側に存在しているのではない。これを「星」、「目の翳」に譬える。
我々にはものは実体的に現れるが、本当には実体はないのだ、自性は空なのだという、否定の面(空の側)が比喩を使って示されている。

次に、対論者が「対象側に実体がないならば、現れているものは一体何なのか? 事物は自然に外界に存在する。良・悪、輪廻・涅槃、自・他などがちゃんと存在し、経験されるではないか?」というならば、「それは因と条件が集まることに依り生じたのだ」と答える。
依って生じたのだ。名付けることに依り存在しているのだという。

例えば、「燈し火(灯明・マルメ)」の如し、と説く。

マルメ「燈し火」と呼ばれるものも、その燃料である油や、芯、芯の周りの空気など、、、オキシジェン(酸素)が無くなれば燈し火は消える、、、というように、良く考えてみれば、「燈し火が輝く」という一つの現象も様々な因や条件に依ることで初めて「現れる」ということが理解される。その原因と条件の一つでも欠ければ、「燈し火」の明かりは消える。

このように、我々には様々な現象がそれぞれ独立のものとして、互いに関係することなく現れているように見えるが、本当には他に依存することなく自体で現れることのできる現象は一つもないのだ。
前にも引用した、「縁起による現れは過(あやま)たぬことと、、、」(ジェ・ツォンカパ著「道の三要素」)と言われるのはこのことだ。
全ての現象は空であるという面を示すために「目の髷」といい、「現れはあるがそれは本物ではない」ことを説き、
「燈し火」と譬えることにより、それでも(それが故に)「因果の縁起により現象は過たず現れる」ことを示す。

全ての現象は「星」「目の翳」「燈し火」、、、次に「まぼろし(ギュマ)」「露(シルバ)」「水泡(チュブル)」の如しという。

まぼろし「まぼろし」というは、、、対論者がさらに「自性がないならば、執着の対象は全く存在しないのか? 人は自然に目の前に現れる対象に対し執着の心等を起こすではないか?」と言えば。

例えば、「まぼろし」と出会う「夢の中」で、怖い人に遭えば、自然に怖くなるではないか。夢の中で相手に怒って喧嘩をすることもあろう。同じように、夢の中で魅力的な対象に出会えば、その対象に執着心を起こすであろう。夢の中のように、その対象に実体がなくても、その仮想された実体に対し執着心を起こすことは実際に起こる。このように、執着の対象には自体は無くとも、執着を起こす条件の一つとなる。これを「まぼろし」と譬える。

朝露「露」というは、「無常」の譬え。
早朝に美しく輝く「露」も、陽が昇るに従い素早く消え去る。
現象は一瞬一瞬変化するという無常の性を持っていると説かれる。

「水泡」というは、現象の「苦」の性格について説明するためだ。
どうして「水泡」が「苦」の比喩になるのか?
水泡は水から生まれる。水の泡は水の性格を負っている。水の自性とともに、水から浮かび出て、再び水の中に消える。現れては消え去る。水から出て水に戻る。このように、我々には苦しみだけでなく、喜び、中性の感覚など、如何なる幸不幸、中性の感覚が生まれようとも、それらは有為の自性として、苦の自性より生まれ、苦の自性の中に消え去る。煩悩の力に左右される限り、汚れた五蘊(身と心)が集積した感受である限り、有為の自性としての苦より生まれ、苦の中に戻る。世俗とはこのようなものだ。

水泡ここでいう「苦」とは、「苦の苦(身体的苦痛)」だけではない。パンチェン・ロサン・チュゲルが「汚れた輪廻の苦しみから逃れたいと思う、、、苦の苦を避けるは家畜にだってある、、、」とおっしゃるように、「苦の苦」から逃れたいという思いは動物にだってある。たとえば、這っている小さな虫をこうして指で押してみると言い、虫はすぐに不測の事態に陥るのではないかと思って逃げようとするではないか。苦しみは厭だと思っている証拠だ。つまり、「苦の苦」を「苦」と認識してそれから逃れたいという思いは動物にもある。
さらに「汚れた輪廻の快感に出離の心を起こすは外道にだってある」。ここでいう快感は快感すべてではなく「汚れた快感」だ。「汚れなき快感」とは永遠の至福のことだ。汚れた幸福感とは業に操られるこの五蘊に関係した汚れたものである。我々が普段「幸福」と呼ぶものはこの「汚れた幸福」のことだ。

この汚れた世俗の幸は何れ、最後には衰え苦しみに至る。水泡は水から生じて、様々な現れを見せるが、何れ水の中に消えて無くなる。このように、偶然のように快感が心に感じられることもあるが、これが生まれる時も有為の苦の自性から生まれ、消滅する時も苦の自性の中に消える。「汚れた輪廻の快感に出離の心を起こすは外道にだってある。有為の自性から生まれたこの五蘊は過去と未来の苦しみの器、、、」と言われるのはこのことだ。第三番目の五蘊の苦(存在の苦しみ)というは、主にこの業の力に左右される五蘊自体について言われる。汚れた五蘊を引きずる限り、苦しみの感覚はもとより幸福な感覚でさえ、苦の自性より生まれ、苦の自性の中に消え去るしかないのだ、と説かれる。

「星」、「目の翳」、「燈し火」、「まぼろし」、「露」、「水泡」と次に「夢」や「電光」や「雲」の如し、と言われるは、
我々の執着の対象を三時(過去・現在・未来)に分解し、それぞれを「夢」、「電光」、「雲」に譬えるのだ。
三時に分解するとは、、、、過去というのは、例えば今10時10分として、これ以前を過去と呼ぶ、、、、
(以下、続きはまたの機会に)
参考:http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/2009-11.html?p=2#20091101

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

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