チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2010年4月28日
KYEGU, ON MY MIND; Jamyang Norbu
チベット人作家ジャミヤン・ノルブ(在米)が地震の被災地ケグド(ジェクンド)に関するエッセイを発表した。
http://phayul.com/news/article.aspx?id=27194&article=KYEGU%2c+ON+MY+MIND+%e2%80%93+Jamyang+Norbu
彼は自分が直接現場に駆け付けることができない無力感の中で、作家である自分にできることは図書室に行きケグドに関する資料を漁ることだったという。
以下はその抄訳。
前略
私は、これら被災地で亡くなった人たちは、みんな顔のない犠牲者ではなく、実際に血と肉を備えた生身の個人であり、生活の物語に満ちていたのだということを、心の目で見たいと思うのだ。
そして、彼らの忍耐と彼らの家郷あるいは祖国が、現在進行形の、チベット人とその文明の物語に果たした役割を確立したいのだ。
地震に襲われた地域はゥガ・ケグドとして知られる。ゥガまたはゥガバ(アバ)はこの地方の民族名だ。
カムの人はケグドをジェクドとかジェグンドと発音する。「ケ(k)」という固い音を、よりソフトな音にするために「ジェ(j)」または「チェ(ch)」に変えるのだ。
ジェグンドはしばしば略されジェグ(Jyegu)と呼ばれる。最近では中国語訛りのジエグ(Jiegu)とい言う人が多い。「ケグ」の語源について私の聞いた一つの説は、「ケワ・グ」つまり「九生」の短縮形というものだ。
意味は、思うに、「かの地のごとくに美しく、祝福された草原で一生を送ることは、他の地で九回の人生を送るに等しい」ということであろう。もっともこれには他の説もある。
接尾語の「ド」はこの土地が二つの川の合流点であることを示している。チャムド、ダルツェド、その他に等しい。ケグドの場合、二つの川とはザ・チュとパルタン・チュ(チュは川)だ。より広くこの辺一帯はカム・トゥ(上カム)と呼ばれる。
ケグドを含む一帯は、今ではむしろユシュと呼ばれることが多い。
チベット人が言うには、この語源は「(リン・ケサル王叙事詩に)由来する土地」という意味の「ユル・シュ」または「ユル・キ・シュル」だという。ユルシュはケサル王の美しい王妃シンチャム・ドゥクモの故郷であり、彼女の父親ガ・テンパ・ギェルツェンの支配する地方であった。このケサルの王妃ドゥクモへの連想でユシュの女性は美しく、威厳があると評判が高い。
中略
ケグドは旧来、チベットの中で、もっとも重要な交易、商業センターの一つであった。沢山の主要幹線の十字路であった。一つの道は遊牧民のセンターであるナクチュを経由してラサに至る。他の道はチャムドとデルゲに通じる。北に向かう道はクンブンと西寧に至る。さらにそこからツァイダムやモンゴルへの道もある。
しかし、何といっても価値ある街道はケグドを出てザチュカ、カンゼを経由しダルツェドに至るルートだ。この街道はチャン・ラム(北の道)と呼ばれた。ダルツェドからラサに向かう、もっとも北寄りの道だからだ。この街道はチャ・ラム(茶の道)とも呼ばれた。チベットに輸入される茶のほとんどはこの街道を通じて、ダルツェドからキグドそして最後にラサへと運び込まれたからだ。
私はかつてダルツェドからキグド、ラサへと向かうヤクのキャラバン隊に参加していたという、リタン出身者にインタビューしたことがある。彼が言うには年間ヤク10万頭に積まれた茶(タン茶)が運ばれたという。その内6万頭分はラサと中央チベットに向かい、残りはアムドやツァイダム、モンゴル方面へと届けられたという。
シルク、刺繍布、磁器、カタ、ダル(豆類)、金属加工品がデルゲから送られ、中央チベットからは薬草や高級ウール、インドから来る綿布、タバコその他の品物もこのケグドを経由していた。もっと高価な価値ある品々はラバの背に載せられて運ばれたという。たとえば、ある種の羊毛、なめす前の皮革とかだ。
茶は全てヤクの背に載せられた。
リタン出身者の話しによれば、ラバ・キャラバンはダルツェドからラサまでを3カ月で行くのに対し、ヤク・キャラバンは少なくとも10カ月を要したという。もっともこれは早くてという話で、雪に遭ったり、チャンタン高原で非常な寒さにあったり、稀に山賊にあったりで予定通りには行かないという。
彼の言うにはこのヤク・キャラバンは巨大で3000頭を軽く越えるものが多いという。宣教師のSusie Rijnhartは1897年に北の草原でこのようなキャラバンに遭遇した時の話を記している。
「我々はジェクンドから来たという、茶を積んだヤク・キャラバンに出会った。それぞれのキャラバンは1500~2000頭のヤクを従えている。これを引き連れる商人たちは服装も整い、宝石類で着飾っている。
女性や若い娘も参加している。」
中略
フランスの民族学者Andre Migotは1946年、ケグドを訪れ「この地方の本当の富はその草原にある」と記した。彼はさらに、3700mという高度や短い夏にも関わらず、牧草地に居るヤクの群れのいかに巨大で、遊牧民たちが、いかに豊かであるか、大麦や豆類、様々な野菜が良く育つかについて書いている。
旧市街の裏の丘にあるドゥンドゥップ・リン・サキャ僧院がケグドの中心僧院だ。この僧院はフビライ・カーンの導師であったドゴン・チュゲル・パクパにより開山された。町の外には有名なギャナック・マニがある。チベットで一番大きな、つまり世界で一番大きなメンダン(マニ石塚)だ。近くにはダンカルとタンギュ、二つのカルマ・カギュの僧院がある。
これら僧院のほぼ全てが、共産軍に対し地域の部族が立ち上がった1956年のカム蜂起の後、破壊された。文化大革命の間に、その残滓も悉く消し去られた。ギャナック・マニの聖なる石は敷き石や中国軍や役人のトイレを作るのに使われた。
夏の盛り、草原が赤、青、黄色の野花に覆われ「果てしなく続く虹のカーペット」と化す頃、遠くはナクチュやその他様々な地方から、遊牧民たちが年に一度の大きな祭りのためにここに集う。
このイベントを何と説明すればよいのか、、、色んなピクニックのハッピー・フュージョン、一週間続くパーティー、地域舞踏会、宗教行事、インフォーマル美人パレード、そして興奮の競馬祭といったところだ。
競馬祭では男たちは完ぺきに着飾った姿で、そのセンセーショナルな馬術を披露する。この素晴らしい集りは、ペルタン・チュ(川)とジ・チュ(川)の合流地、ケグドの南20キロほどのところにある、バルタンで行なわれる。されに南に下りこの川はディ・チュまたはヤンツェ川(揚子江)に合流する。
Andre Migotは草原を埋め尽くす、豊かに装飾された、テントの海に圧倒されたという。テントの中は、広々としており、絨毯や長椅子、低いテーブル、さらに仏壇まで供えられ、非常に快適な空間だったと報告している。各テントにはキッチン・テントが別にあり、そこには御馳走を用意するためのあらゆるものが備えられていたという。
「世界中の如何なる祝日も、これほどまでに素晴らしく、壮観なものはないであろう」
終。
Note: Check out Michael Palin’s travel documentary, HIMALAYA (BBC) on disc 2 program 4, for wonderful scenes on nomadic life and the Horse Festival at Kyigudo. You can rent it from Netflix. Also Check out www.rangzen.net for a photo essay on the “Horsemen of Kyigu”.
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)