チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2009年9月26日

新たな証言インタビュー集ビデオが内地より持ち出された。

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リンチェン・サンポ新たにチベットからの証言インタビュー集が届いた。
昨日情報省で開かれた記者会見で撮影者のリンチェン・サンポ氏が紹介され、一時間半にまとめられたビデオ上映の後、彼の解説が行われた。

この証言集の題は、チベット語では「ゴニョン・デンパ・ラトゥ」、直訳すれば「自分の経験した真実を証言する」という意味。英語では「Unveiling the Truth」。直訳で「真実を暴く」と一応訳しておく。

39歳のリンチェン・サンポ氏はアムド・ゴロ、タンキャップ僧院の僧侶である。
彼は昨年10月中にゴロ各地のお年寄りを中心に21人のインタビューを収録した。
さらにインタビューを続けるつもりであったが、当局に気づかれ、逮捕の危険が迫ったのを知って、亡命を決意し、ヒマラヤを越え、12月末無事ダラムサラに到達した。

発表されたビデオは情報省が21人の中から15人を選び90分物に編集したもの。
以下にアクセスすれば現物を見ることができます。
http://media.phayul.com/?av_id=161&av_links_id=341

1958年(ゴロでは中国軍が本格的に殺戮を始めたのは1959年ではなく1958年)以前を知る老人たちに1958年以前の生活と以後の生活について語ってもらうというのが質問の中心だ。

15人すべての老人が、法王がいらっしゃったころの平和で幸せだった子供時代を語り、中国が来て以来、如何に苦しみのどん底に喘いだかを語った。
親兄弟が殺され、その死体の上で踊らされた者もいる。
黄河が死体でせき止められたのを見たという人もいる。
証言者の多くが両親が逮捕されるなり、殺されるなりして孤児になったという。

中国はチベット人は豊に幸せに暮らしていると言ってるが、自分たちの生活は今でも食うのがやっとだという。
全員、一生の願いは法王に一目でもお会いできることだと言った。

全員、殺されても悔いはないと顔を明かすことを承諾したという。

このような生き証人が消えていく前に危険を顧みず、記録に撮ったという意味は大きく、年老いたチベット人たち一人一人の偽りのない表情が心を打つ貴重なビデオだと思った。

この上映会のすぐ後、さっそく情報省にこのビデオの日本語版を作る許可をもらった。
少し短くして、出来るだけ早く日本語版を作りたいと思っています。

この前紹介した、ラモ・ツォのビデオの日本語版制作の許可も版元の女性協会からもらいました。これも早く日本語版を作ります。

以下、昨日の上映会のいくつかのシーンを写真に撮ったもの。
字幕をその前後とともに訳した。
(写真はいつものようにクリックすれば大きくなります)

アムド・ゴロ、村人の証言キェル・ケンギャル
中国政府は私の父と叔父その他の親戚をどこかに連れて行き、すべての持ち物を取り上げた。その長い年月チベット人の味わった苦しみは、例えば「死んだ者の死体をどこにも見つけることが出来なかったのだ。(生き残った者たちの)運命は押して知るべしだ」。だから、今はこうして笑うこともあるが、心は悲しみでいっぱいだ。

アムド・ゴロ、村人の証言カルツェ・ドゥギェル
1958年には多くの苦しみに堪えた。私は今、身体障害者だがこれもそのときの階級闘争にさらされた結果だ。食べるものが無かった。「そして、チベット人は文字どうり草と糞で生きぬいたのだ」。チベット人に振りかかった苦難とはそのようなものだった。

アムド・ゴロ、村人の証言2ジャンツァン・カルキャップ
1963年に監獄から解放されたが、頼るべき者もなく行くところもなかった。
両親と妻はすでに餓死していた。「さらに、私は嘗てディ(メスのヤク牛)を数頭所有していたことから資産階級とされ、「悪党」の象徴として「黒帽」を被らされた」。それ以来人間としてのすべての権利をはく奪された。移動の自由も無かった。

アムド・ゴロ、村人の証言4セルサ・ノルブ
11歳のころ生き抜くためにもがき苦しんだ。そして障害者になった。父は監獄で死んだ。ほとんどの叔父は逮捕され、その後死んだ。「両親が死んだ。私は孤児となり彷徨った」誰も気遣ってくれる者もなく、幼い6人の兄弟姉妹が残された。

アムド・ゴロ、村人の証言3ケル・ドゥモ
我々チベットの年老いた世代の者たちには「死ぬ前にダライ・ラマ法王に一目お会いし、亡命中の同胞たちに再会したい」という強い願いがある。国連や世界中の国々に、我々の真実の戦いを支援してくれることを、心の底からお願いする。

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

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