チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2009年9月8日
寂しいだろうとパルデンさんを訪ねて、
今日は午前中、パルデン・ギャツォさんのお宅にお邪魔しました。
最近は外国からお呼びがかかることもめっきり減り、判りにくい場所で、特別のサインを知らない人には居留守を使う老人を尋ねる人も少ないであろう、
寂しいに違いないと勝手に思い、訪ねた、、、と言う訳ではなく、実現はまだ怪しいある企画のテスト・インタビューに伺ったのです。
最近病院に二週間入院されておられたとか。
肺の病気らしく、呼吸が時に苦しくなるとのこと。
でも今はもう治ったとおっしゃっていましたが、明かにこの前お会いしたときより痩せられていると感じました。
少し心配です。
今日のバルデンさんのお話を少しだけ以下に報告いたします。
刑務所の状況を訊ねると、
パルデンさん「私は1959年蜂起に参加したとして逮捕され、ラサのダプチ刑務所に入れられたわけだが、そのころダプチ刑務所だけで6000人のチベット人が政治犯として収容されていた。そのうち300人が女性だ。
これはラサのダプチだけの話だが、シガツェ、ギャンツェ、チャムドその他チベット中の主だった町にはどこにも大きな刑務所があり沢山のチベット人が捕らえられていた。
60年になり、あまりに囚人が増え過ぎたので、多くの者が中国内地の刑務所に送られた。
チンヘというところへ1500人、チュチンへ1500人、レンドゥへ1500人送られた。その他チベット内のサムエ、コンボやカムの刑務所に送られたものもいる。
それでも、次々と所謂政治犯は逮捕され刑務所に送られてくる。80年代の初めまでダプチ刑務所の政治犯の数は4~5000人を下ったことはない。
チベット中が監獄だらけだった。
60年、61年、62年はひどい食糧難だった。普通の人だって沢山餓死したのだ、囚人に回す食糧などもちろんなかった。餓死しろと言うことだった。
その三年間で囚人の70%が餓死した。
62年には先に中国に送られた者たちが帰ってきたが、ある地区に送られた1500人の内300人しか帰って来なかった。後は皆死んだのだ。」
私「食事は実際どんなだったのか?」
パルデンさん左手の手のひらを上に向け、右手をその指の付け根に置いて「この先ほど(指先まで)のツァンパ。これを朝与えられる。夕方までそれしかない。それとコップ一杯のお茶を朝と昼、口にするだけだ。夕方には薄い薄いツァンパのスープが出る。中身はほとんど何もなく、塩も薄い。
私は外国などで話をするとき、いつもこうして餓死していった友人たちのことを思い出す。
<お前がもしも生きて監獄を出ることができたなら、一つ仕事をしてくれ、、、>と言って死んでいった。仕事とはその状況を人々に知らせることだ。」
私「もうお年だし、政治的活動はやめて仏教の修行、瞑想とかに時を過ごしたいと思ったりされないか?」
パルデンさん「自分たちは国を失った者たちだ。失った国を取り戻すために働かず、ただじっと瞑想しているのは、野良牛が寝てるようなものだ。今はインドにおいて貰っているが、いつまた追い出されるかもしれない。チベット人には国が要るのだ。
宗教と政治は別物だ。しかし、関係は深い。政治がダメなら宗教もダメだ。今のチベットに宗教の自由は無く、宗教は弾圧され、発展することはない。
インドではどんな宗教を信仰することも許されている。誰もなにも妨害しない。
宗教の自由がある。だから、宗教のために政治を変えなければならないというわけだ。
自分は仏教にしか興味のないチベット人は野良牛のようなもんだと思ってる」
「他の細かいことは全部自分の本に書いてある。全部本当のことだ。この前スペインの法定にも自分の本を証拠として提出した。その時裁判官に<この本に書いてあることは全部本当か?>と聞かれた。私は<すべて事実であります>と答えた。だから嘘があれば私は訴えられるだろう。すべて真実だ」
最後に一日の生活のスケジュールを聞いた。
すると、瞑想やら読経やらでほとんど一日中過ごされていることが判明。
瞑想室で瞑想のポーズを取った後。
「しかし、結局そう言いながら、仏教ばかりやってるようだな、、ハハハハ、、、」
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筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)