チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2009年2月23日
第7日目 ナンパ・ラを後にして
第7日目。カンチュン5200mーーーー>チュレ4300m
今日は下りと言うことで、登りに二日かけた行程を一日にして、チュレまで一気に降りることにしました。
連中は鼻歌まじりにヤクを追いならがどんどん下っていきます。
それでも最初の方は相変わらず氷河渡りです。
ガワンは崖の上の危なっかしい石をわざと下に落としながら進みます。
一つの石を落とすとそれにつれて下の方の石も落ち、最後はゴーといういう音と共に砂煙が上がる、大きな雪崩のようになって氷河の底に消えていきます。
ルナックで少し休憩。でも昼食のために火を起こすことはなく、すぐに出発。
ここにあった難民の子供の靴を、N2は拾い日本に持って帰るとことにした。
この先に行くと見ることのできなくなるチョー・オユー(8201m)に、これからもチベット難民を見守り、助けてくれることを祈願する。
チュレに行くにはどこかで川を渡らないといけなかった。
ヤクとアン・サンポとケルサンは先の方の橋に向かった。
ガワンと私たちは川の上にできた氷と雪の橋を渡ることにした。
ガワンが先にたち、私がそのすぐ後ろを同じ足後をたどる。慎重に一歩ずつ足を前に出す。
川の真ん中あたりに来た時、突然ガワンの踏み出した足の周りが一気に崩れ落ちた。
すぐに私が手を伸ばしガワンがつかまりまる。と、今度は後ろ足の方も崩れ始める。
あ、やばい!と思った瞬間。ガワンは両足をいっぱい広げて流れの前後にあった、岩に足を乗せかろうじて川に流されず持ちこたえています。下の川の流れは強く靴はもう川に浸かっています。
私は力いっぱいガワンの手を引いた。
何とかガワンは流されることなく上がってこれました。
それにしても雪と氷の下のどこに岩があるかなど全くわからないのに、崩れたとき一瞬にして足を開きちょうど前後の岩に留まったガワンのカンの良さには驚いた。
きっと、隠れた岩の位置を知っていたのでしょう。
それにしても危ないところでした。川が狭まり流れが強い場所だったので落ちていたらあっという間に流されていたことでしょう。
左の写真が崩れる前の現場。
チュレはこの谷最後の夏の村です。今は誰もいない無人の村。
我々と彼らが放っていたヤクだけが美しい枯草の草原の仮の住人でした。
アン・サンポはここに二棟の山小屋を持っていました。
久し振り、といってもたった三日ぶりの屋根付き家ライフ。
N2は外にテントを張ってましたが、私は隣の小屋に泊めてくれとたのみました。
「でも、小屋は綺麗でないよ。外人はまず泊まろうとしないよ」とのこと。
中に入ると確かにヤク小屋のようでもある、でも広くて私は気に行った。
だいたい私はダラムサラの裏山で、これよりもっとひどい小屋とか岩屋に毎年数か月過ごしていた時期もあったので、その小屋は相当上等なのもに思えたのだった。
小屋は二階建で下は家畜小屋だった。面白いのは二階の床は木ではなくこの辺の芝の表土を切り取って乗せてあることだった。気をつけないとところどころに開いた穴に落ちそうではあった。
彼らの小屋のかまどには盛大にヤク糞がくべられた。
今日の夕食は素ラナ・ヌードルではなく、米とジャガイモが食べられるとのこと。
これを聴きN2と私は歓声を上げた。この三日間、二人の胃袋は相当ひもじい思いをしていたからでした。
その夜は、オイルランプの灯のもと、落ち着いて再びガワンに峠を越えてくる難民の話を聞くことができました。
チベットからの帰りに難民に何度も会い、助けたこと。ナンパ・ラが吹雪くとどういうことになるか等、詳しく話してくれました。
彼らはここにもう一泊しようと言いました。
この辺に放してあるヤクを明日集め、明後日一緒にターメまで下ろしたいというのです。
ここが気に入った私たちはすぐに同意しました。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)