チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2008年12月8日
野田雅也氏の記事等
昨日お知らせした、可哀そうな老人の話、共同通信が取り上げて下さいました。
昨日の要約のようですが、以下共同の記事です。
http://sankei.jp.msn.com/world/china/081206/chn0812061301002-n1.htm
<チベットの旗印刷し実刑>
2008.12.6 12:59
国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウオッチ(本部ニューヨーク)は6日、中国チベット自治区ラサで印刷業を営むチベット民族の男性(81)が中国当局に禁止されているチベットの旗などを印刷したため懲役七年の実刑判決を受けたとして「表現の自由」に対する侵害だと批判、釈放を求める声明を出した。
ラサでは今年3月、チベット民族の住民による大規模な暴動が発生。当局による厳しい取り締まりが続いたが、最近は「表現の自由」にかかわる逮捕や有罪判決が増えているとしている。
同団体によると、印刷業の男性は10月末に当局に連行され、拘置期間中、司法当局は男性の身内への通知を拒否していたという。(共同)
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以下は、法王とサルコジ大統領が会談したことに対する、中国の反応の一部です。
益々そのマフィア性を全面に押し出してきたようです。
<サルコジ大統領のダライとの面会、外交副部長が強く抗議 >
http://www.pekinshuho.com/gjpl/txt/2008-12/08/content_168929.htm
何亜非・外交副部長は7日夜、フランスのサルコジ大統領がポーランドでダライ(ダライ・ラマ14世)と面会したことについて、同国の駐中国大使を呼び、厳正な申し入れを行った。何副部長の発言は次の通り。
サルコジ大統領は12月6日、中国人民の強烈な反対と中国側の再三の厳正な申し入れをも顧みず、フランス大統領とEU議長国としての二重の立場でダライと頑なに面会し、中国の内政に粗暴に干渉し、中国側の核心的利益を深刻に損ない、中国人民の民族感情を深刻に傷つけ、中仏・中EU関係の政治的基礎を破壊した。中国政府はこれに対し、断固たる反対と強烈な抗議を表明する。
サルコジ大統領は今回、そのいわゆるEU議長国としての義務に言及し、また面会現場にEU旗を置いた。これによってフランス側は誤ったやり方をEUに押しつけ、劣悪な先例をつくった。こうした誤ったやり方によって損なわれたのは、中仏が国交樹立以来45年間築いてきた得難い政治的相互信頼であり、全面的な協力であり、良好な展望であり、この深刻な結果はフランス側が全て負うほかない。
われわれはフランス側に対し、両国関係の大局と両国人民の利益に重きを置き、中国側の厳正な立場と理に適った懸念を真に重視し、サルコジ大統領のダライとの面会が両国関係および中EU関係にもたらした損害を十分に認識して、蔵(チベット)関連の問題において実際の行動によって過ちを正すことを要求する。
「人民網日本語版」2008年12月8日
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今日はコピペばかりで恐縮ですか、
野田雅也氏が「信濃毎日新聞」紙上に連載されている記事の、第二回分と第三回分をまとめて掲載させて頂きます。
信濃毎日新聞 文化面 08年11月14日掲載
<チベット 人々の祈り> (野田雅也)
第2回 追いつめられていく構造
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チベット人ソナムの携帯電話には、見知らぬ漢民族の女性が応答した。九月下旬、チベット自治区のラサに到着し、安否を確認しようと電話をしたときのことだ。悪い予感を抑えつつ、別の知人にも電話をしてみるが、同様に知らない誰かが出るか、すでに番号が使われていない。本人と連絡がとれたのはパサン(31)=仮名=ともう一人だけだった。
ラサに住んでいたそのパサンも、今は自治区外の故郷に戻り、家畜の世話をしているという。後日、別の町で二年ぶりに彼と再会した。表情には疲労の色が濃く、五歳も十歳も年をとったかのように見える。
チベット騒乱後の三月下旬、ラサでチベット人の一斉家宅捜索が行われ、パサンの部屋にも黒い覆面をした治安部隊が押し入った。ラサ市政府が発行する居留許可証を持っていなかった彼は、故郷に戻るよう兵士に命令された。不満を言えば「国家分裂主義者」として拘束されかねないため、「従うしかなかった」。
彼だけでなく多くの市民や僧侶たちが、同じ理由でラサから追放された。生活の場や仕事を失った人々は、故郷に戻っても収入を得るすべはない。パサンは周辺の都市部に出て職探しを続けたが、チベット人というだけで面接さえ拒否された。五カ月後にようやく、中国沿岸部にあるテレビ製造工場で働くことが決まった。製造ラインでスピーカーを溶接する仕事で、月千三百元(約二万円)の高収入が得られる。チベットから二千キロも離れた大都市での生活に不安はあったが、すでに親族や知人からの借金が膨らみ、選択の余地はなかった。
しかし、工場での仕事は、早朝から深夜まで高温の蒸気を全身に浴び続ける過酷な作業だった。一週間後、過労とストレスで体調を崩したパサンは、「ほかにも働きたい者は山ほどいる」というひと言で解雇された。賃金はまったくもらえないまま、実家に戻った。列車の往復運賃と生活費の借金だけがかさんだ。
「締めつけが厳しくなり、チベット人が徐々に追いつめられていく構造がある」とパサンは語る。中国民主化運動情報センター(香港)の二〇〇七年の調査によると、ラサの人口三十五万人のうち漢民族は二十万人を超える。チベット人が少数派になり、急速に中国化が進んでいる状況は、その当時から指摘されていた。騒乱後はそれに加え、多数のチベット人がラサを追放され、職を解雇される人も急増した。そしてその空白を埋めるように、移住してきた漢民族が入り込み、人口構成や社会構造の転換が加速している。
パサンは「中国下のチベットでこれ以上暮らせない」と、インドへの亡命を考えている。しかし、インド、ネパールとの国境地帯には人民解放軍や国境警備隊が大幅に増兵されているため、国境を越えての亡命は「危険すぎる」状況だ。「今やチベット全体が監獄だ。中国政府にとってチベット人は不要な存在で、地下資源の豊かな土地、領土だけが必要なんだ」とパサンは言った。
十月十八日、アムド地方チェンツァ(青海省尖扎(ジュンカ)(ジアンザ)県)に住む十七歳の少年ルンドゥブが、学校の屋上から飛び降りて自殺した。遺書にはこう記されていた。「チベット人は自由と基本的人権を奪われている。それを世界の人々に知らせるために自らの命を絶つ」と。
逃れることのできない苦しみのなかに生きるチベットの人々。その苦しみが彼を死に追いつめたのだ。
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信濃毎日新聞 文化面 08年11月21日掲載
チベット 人々の祈り (野田雅也)
第3回 奪われる生活の基盤
ショベルカーが黒煙を吐き出し、畑に鉄の爪を突き立てる。在家尼僧のダワ(38)=仮名=は、土の上に泣き崩れた。「ここは私が大麦を植える土地なんだよ」
チベット東部アムド地方(青海省)で暮らす彼女は二〇〇六年八月、省政府から突然、畑の明け渡しを命じられた。新たな都市開発ため、省政府が土地を買い取るというのだ。「役人は怒鳴り、尻を叩いて、『契約書に署名しろ』と迫った」。ダワは、土地の買収代金として十万元(約百四十万円)を提示されたが、拒絶した。
身体に障害がある孤児を引き取って育てている彼女は、畑で収穫した大麦を肉やバターと交換して生活してきた。「代々受け継いできた、生きる拠り所のこの畑を、どうして明け渡さなくてはならないのさ」と涙を浮かべる。だが、役所に四度目に出頭したとき、彼女はこう告げられた。「契約はもう済んでいる。作業は始まった」。あわてて畑に駆けつけたダワが目にしたのが、冒頭の光景だった。
爆発的な経済成長を続ける中国は、開発が遅れた内陸西部地区の〝発展と近代化〟のため、二〇〇〇年から西部大開発に取りかかった。北京、上海などの大都市とチベット自治区のラサを結ぶ鉄道の敷設工事が始まり、チベット高原での鉱物資源や天然ガスの採掘にも拍車がかかった。しかし、この開発によって利益を得るのは、チベットの人々ではない。
中国政府は〇六年から、草原に散在して暮らすチベットの農牧民を集合住宅や都市部に定住させる「農牧民の定住プロジェクト」を本格化させた。アムド地方のある集合住宅地を訪ねると、生活支援を目的とした絨毯工場や学校が建てられ、各戸ごとに小さな畑もあった。しかし工場に機器類はなく、学校には机も人影もない。畑はあっても、もともと草原の民である人々の多くは、作物の栽培方法をほとんど知らない。伝統的な生活を失った農牧民たちは、生き方さえ見失ったかのように、住宅地の中の道路を行ったり来たりして無為に一日を過ごしていた。
集合住宅地を案内してくれたチベット人男性によると「この地区では、家畜を売って集合住宅に移り住めば、六万元(約八十四万円)が支払われる」という。そのうち半分が住宅の建築費として差し引かれ、残り半分が手に渡る。現金収入に乏しい農牧民にとっては大金だ。だが、「それが貸付金で、返済義務があることを、多くの人は知らない」と彼は言った。
ラサでは、チベット仏教の聖地として千年の歴史を誇る古い街並みが、観光客向けの〝チベット風建造物〟に変わり、チベット人居住区は緑化計画のための公園に、あるいは高級マンションに変貌した。そこで暮らしていた人々は転居を余儀なくされた。政府は、彼らに住宅補助金として一家族一万元(約十四万円)を支給している。しかし、新たに家を建てるにはその十倍以上のお金が必要だ。
〝発展〟の名の下にチベット人が生活の基盤を失い、借金を負わされていく一方で、移住してくる漢民族のために、新しい街や工業地帯が次々と造られている。その現状を写真に撮るうち、ひとつの歴史が脳裏に浮かんだ。それは、日本が鉄道を建設し、開拓移民を送り込み、傀儡国家を築いた満州のことだ。その負の歴史が、今のチベットに重なって見える。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)