チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2008年11月26日
続・続23日の法王記者会見
昨日、一昨日からの続き、完結編です。
質問の部分はほとんど聞き取れず、はっきりしません。
御勘弁を。
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昨日の<信頼がなぜ薄れて行ったのか?>の質問への答えの続きから。
3月10日のことだが、実際のデモは10日の午後に始まっていた。
3月10日には我々はいつもの行事として、ツクラカンに集まり、声明を発表したりする。
私はその日、体調が良くなかった。風邪をひいており、咳が出て、熱もあった。
そこで私は早めに会場を去った。
昼食の後、「今、ラサの街で、人々がデモを始めた」というニュースが入ったのだ。
だから、本当にはデモは10日に始まり、11日、12日、13日と続いたのだ。
しかし、中国政府は14日からデモは始まったと言い続けている。
これはどう言うことか?
現地の人々からの情報によれば、10日の後、数日中に数台のトラックに乗った不審な見知らぬ一団がラサに到着したという。
そして14日には放火、略奪等が起こった。
関連を疑う。
もっともこのことは100%確かなことではない、ちゃんと調査されるべきことだ。
だから、国際機関や中国が調査団を派遣すべきだと、私は最初から言い続けてきた。
チベットに行って普通の人々に会って、何が起こったのかを聴くことだ。
調査が必要だ。
中国の首脳は私がこの騒ぎを引き起こしたと言う。
だから、私はいつも言ってる、中国の役人、調査団をここによこして、何でもいいから調べればいいと。
すべてのファイルを調べ、いろんな機会に私の話した内容とかを録音したテープを全部聴けばいい。
私は新しい亡命者と会う時に、いろいろな話をする。
それらを聞いてチェックすればいい。
私たちは何も隠さない。いつでも見せる用意がある。
でも、何の反応もない。
今でも呼び続けている。
そこで、、、
「この中に中国のレポーターはいるか?」(と記者団を見まわし)
「あなたは中国からではないか?、、顔が中国人のようだが?、、、日本人か?」(と前の方にいた人を指す)
「日本人です」(某新聞社記者)
「そうか。日本人か」ハハハ。
「中国人はいないのか」
誰も手を上げない。
「この中に11人居るはずです」(情報官)
最初のころ中国のレポーター、新華社が来ているという情報があったが、、、だから、今日はこの会見に来ていると思っていたが、、、私は彼らを一週間招待した。
私のゲストとしてすべてをちゃんと調べてほしいといった。
でも、もうみんな帰って、誰もいないみたいだな、、、ok ノープロブレム。
そうだ、キツイ冗談として、「おしっこも調べてくれ」と言ってたが、これにはちゃんと理由があるのだ。
それは、中国の役人の中に私が「B型肝炎を罹っている」というものがいると聞くし、数年前にはチベットの中で「ダライラマは癌を患ってる。数か月の命だ」という噂を、中国のエージェントが故意に広めたりしたからだ。
だらか、ちゃんと私のおしっこも調べてほしい。ハハハ ハハ!
これらが私の「落胆し、中国首脳部に対する信頼が益々薄れてきた」と言った理由だ。
しかし、私の中国の民衆に対する信は決して揺らいだことがない。
昨日も中国の人たちと話をしたが、、、この中に来てるかな、、、本当に親密な会話をすることができた。
中国がもっと開けた社会となり、法によって統治され、民主化されるべきだ。
今年の3月10日前にも少しはあったが、特に3月以降には100を超えるチベットを支援する記事、論文が中国人の作家、教授、知識人によって書かれ、発表されている。
みんな、チベットの「意味ある自治」を得るための戦いを支持してくれている。
3月の危機の後、4月にはアメリカに、5月にはヨーロッパのドイツとイギリスを訪問した。
この二ヶ月間はどこにいっても中国人のデモ隊が私を追いかけてきた。
彼らは怒りに駆られていた。ハハハ。
アメリカの秘密エージェントのアレンジで、そんな中国人数人と会うこととなった。
テーブルを挟んでその時前には、若い中国人が7人いた。
私は「我々は反中国主義者ではない。我々は中国人を尊敬する。その文化を評価する」と説明した。
「初めからオリンピックを完全に支持している」ことも言った。
そのあと、3月以降に私が中国、世界、チベット人に訴えてきたことを説明した。
7人の内、2人だけが私の説明を聞いていた。
しかし、他の5人は私の説明さえまったく聞いていない。
非常に感情的で、怒りに支配されていた。
テーブルを挟んでいたからよかったが、そうでもなかったら彼らは私に飛びかかり、殴りかかっていたかもしれない。
それほで、感情的なのだ。
だから、それからできるだけ、中国の新華社を含めたメディアに積極的に会うことにしている。
アメリカにある、そうした中国語メディアには積極的に接した。
その後のヨーロッパにおいても同様に中国人に説明し続けた。
そして、オーストラリアに行ったころにはもう中国人のデモ隊は追いかけて来なかった。
今は少しはまともな情報、良い教育を受けたといえよう。
現実に近づいたとも言えよう。
だから、私の中国人に対する信頼は揺らいでいないと言いたいのだ。
対話と言うと、これは対象別に二つに分かれる。
政府相手の交渉と人々との対話だ。
中国の人々はいつまでも変わらすそこにいる。
政府は政策の変更があったり、政府自体が変わったりもする。
リーダーが変わったりもする。
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<今度の会議にチベット人の意見は十分反映されたと思われるか?>
93年から中国との接触が途絶えていた。
そんな状況から1997年には国民投票のようなものも行われた。
チベット人の感情、意見を聞くためだ。
困難はたくさんあったが、色んな意見を聞くことができ成功だったと思う。
今回はネットの発達もあって、以前より効率的に広く意見を聴き、集約することができた。
私は常に言っている。
「我々の本当のボスは中にいるチベット人だ」と。
私自身はチベット人に対する「フリー・スポークスマン」でしかない。
亡命チベット人のコミニティーは小さいが、しかし我々はすべてのチベット人を代表している。
なぜか?
中にいるチベット人には「言論の自由」がないからだ。
もし、本心を口に出すならば、すぐにその場で非難され、分裂主義者の汚名を着せられる。
そうだろう。
だから、我々は彼らのために働かねばならない。
もちろん、あらゆる機会を通じて彼ら中にいるチベット人の意見を聞く努力は続ける必要がある。
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フランス人か?
フランス人ののアクセントだな、
<脱宗教について>
最初から、終わりまで大事だ、
チベットの憲法を定めるときにも、最初からその性格は宗教を離れている。
選挙によって首相が選ばれてからは、私はもう半分引退している。
2001年の選挙では、幸運にも、不幸にもか?
人々はもう一人の僧侶を選出した。
年も取ってるし、、、(傍にいたサンドゥ・リンポチェの方を向き)ハハハ、、、でも私よりは若いか,ハハハ。
髪も全く白いし、私の方が(黒くて)若く見えるけどな、、、ヒヒヒヒ!
社会においてはセキュラー(脱宗教・世俗)システムが一番だ。
宗教を信じない人もいるし、他の宗教を信じる人もいるからだ。
セキュラーと言うが、これは反宗教ということではない。
イスラム教のある友人はこのセキュラーシステムは宗教に反すると言って、これに反対する。
これは誤解だ。
インドにはこの伝統がある。
マハトマ・ガンジー師は深く宗教的人物であったが、一方で政治の分野では脱宗教を強く推し進めた。
インドの憲法もセキュラーなものだ。
それがインドに合っているのだ。
インド議会には沢山の党がある。
様々な宗教も政治に参加している。
世俗主義というのはすべての宗教を同等に尊重するということだ。
この宗教、あの宗教と言わないことだ。
同様に宗教を信じない人々も尊重されるということが含まれる。
これも大事な点だ。
しかし、個人レベルの話をすれば、
何らかの道徳的信念を持つ方が良い。
特にリーダーには大切な資質だ。
例えば、神を信じる人々は「神は見ている。こんなことをすると、神に罰せられよう」との思いから悪事を避ける。
因果を信じる人々は「こんなことをすると、いつかこんな悪い果を受ける」と知って悪事を避ける。
このようなことがあるからだ。
しかし、組織についていえば政治機関や教育機関は脱宗教であるべきだ。
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<会議の感想を>の質問か?
この会議は、政府の者も、長老も若者も本気に自由に同等に議論を進めたと聞く。
活発な討論が続き、熱くなる位だったという。
何にも遠慮せずに、率直にそれぞれの思いを言い合ったことは非常に良いことだ。
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<中国民主化同盟系の中国人からの感想>の後に:
89以降、前にもいったが、中国のビジネスマン、学生、知識人、教授等、中国の民主化、開けた社会を実現しようと努力している人々を全面的に支援している。
彼らも私のことを「仲間」と呼んでくれてる。ハハハハハハ!
私はいつも民主化と正義の実現のために働いている皆さんと共にある。
これは道徳的支援だけではない、皆さんで会合を開かれるときがあれば、私を招待してほしい、出席しよう。
目的は一緒だ。
チベットの格言に「100の病に効く一つの薬」というのがあるが。
民主化された中国、開かれた社会、すべてが透明で、正義に基づき、道徳理念を備えた中国が実現されれば、すべての問題、日本との、台湾、アメリカ、インドとの関係、中国国内の問題、チベット問題、ウイグル、モンゴルの問題は簡単に解決される。
それにしても、その間には北京からひどいことをたくさんいわれることであろう。
これは覚悟しとかないとね、、ヒヒヒヒヒ。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)