チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2016年5月24日

ツェリン・ウーセル 詩篇 その1 『雪国の白』他

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fcd035d1以下はチベットの詩人、ブロガーである北京在住のツェリン・ウーセル(私はウーセルと表記するが、オーセルと表記する人もおられる)さんの詩篇である。
日本では劉燕子さんのすばらしい翻訳により、2012年に集広舎さんから『チベットの秘密』として出版された本の中に含まれている。

今回、訳者の劉燕子さんから少しでも多くの人に読んでもらいたいからということで、私のところに送ってくださった。

全部で2万字以上あるので、今日からおそらく5、6回に分けて掲載させていただこうと思う。
ウーセルさんの記事はこのブログでもこれまで再々その翻訳を載せてきた。
チベットを想う気持ちがこれほど強く美しい詩人、活動家を私は他に知らない。

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『チベットの秘密』(集広舎、2012年)
第一部 詩篇
ツェリン・オーセル著、劉燕子訳
雪国の白

白い花蕊の中で、彼女はドルジェ・パクモ〔金剛亥母。聖なる山の女神〕が舞っているのを見ました!
いいえ、それは白い花蕊ではなく、高山の頂きでした。

白い火焔のなかで、彼女はペルデン・ラモ〔吉祥天。ダライ・ラマとチベット政府の守護神〕が走っているのを見ました!
いいえ、それは白い火焔ではなく、山々の間でした。

起伏が連なる山麓は、菩薩の曼陀羅を囲むけれど、
星や碁石のように点々と広がる湖は、活仏の転生を現しているけれど、

白い花蕊はたちどころにしおれ、白い火焔はたちまち消えます。
彼女は涙を呑み、遠い異郷のチェンレスィ〔観音菩薩のチベット名。ダライ・ラマは観音菩薩の化身とされる〕に、どのような便りを伝えるのでしょうか?

便り。あぁ、人から人への便りが、一つひとつの親しい名前を伝え、
ダーキニー〔空行母〕とヘールカ〔護法神〕が一瞬身を隠すとき、無と化すのです。

二〇〇五年一一月一三日、東チベットのギェルタン(結塘)からラサへの空中で

 

 

バラバラに壊された痛ましい尊仏の記

ラサを離れてから二十日になりました。
いつもご尊顔がぺしゃんこにへこまされたあの仏像を想い出します。
冲賽康(トムセーカン)居民委員会* の前の露店におられ、
遠くからでも、目に入りました。
私は金露梅〔エゾツルキンバイ〕を買うためにトムセーカンの市場に行こうとしていました。
でも、仏像が目に入り、突然、深い悲しみに打たれたのです。
知らず知らずに壊された仏像に向かっていきました。
まるでいのちがあり、痛みを感じながらケースにもたれておられるようでした。
顔はぺしゃんこにへこまされ、腕は折られ、しかもまん中でたたき切られていました。
まことに痛ましく陳列ケースにもたれておられました。
そして、しょう油、豆板醤、サラダ油、トイレットペーパーにとり囲まれていました。
どれも中国の内地〔漢人地域〕から私たちの生活に入ってきたものです。
仏像の首には、色あいが精美な石の首飾りがかけられ、
ふところには顔が獅子で、からだは人間の怪獣を抱かされ、
やはり壊されて残がいとなったチョルテン〔仏塔〕の上に置かれていました。
かつては、どれも神聖な寺院に祭られていたのでしょうに。それとも敬虔な家庭でしょうか?
まことに痛ましくケースにもたれておられました。
そのご尊顔は水面のごとく静かで、かえって私は骨の髄まで痛みを覚えました。
悲しみに打ちひしがれて見つめていると、あたかもある物語が始まるような気がしました。
さらに、その背後にある歴史と現実も見えてくるようでした。
あぁ、私は前世からの尊仏のご縁を確かに感じました。
雪どけのように、高い山頂からゆっくりと私の心と体にしみわたりました。
露天商は両手でひざを抱え、
私に売ろうとしました。
「買いなよ。古い仏像だ。立派なもんだろう?」
「いつ、こんなに壊されたのかしら?」
私は尋ねました。
「文革だよ。当然、文革さ。」
彼は頭を上げて言いました。
「おいくら?」
私はとてもとても買って帰りたいと思いました。
しかし、江西省の行商人は一言「三千」と言い切ったのです。
私は残念でたまらず、とても離れがたかったけれど、後ろ髪を引かれる思いで、
痛ましくバラバラに壊された尊仏のもとを離れました。
ただ数枚の写真を撮っておきました。
懐かしい思いにこがれるときに、パソコンを開いて見ます。
友人は、ま新しい仏像を高く売りつけるために、
わざと壊して、文革の話を作りあげたのかもしれないと言います。
そうね。もしかしたらそうかもしれない。でも、まだズキズキと痛むのです。
だから、私はこの詩を書いて、解きほぐします。

二〇〇七年五月一四日、北京
一枚の紙でも一片の刃になる

一枚の紙でも一片の刃になります
しかも切れ味は割といいのです
私はなにげなくページをめくろうとしただけなのに
右手薬指の関節のところが切れてしまいました
傷口はとても小さいけれど
細い糸のように血が滲み出てきました
ズキズキと痛みましたが
私は内心でこの劇的な変化に驚きました
突如、紙さえ刃に変わったのでした
どんなミスで
あるいは、何がきっかけになって、こうなってしまったのでしょうか?
私はこの平凡な紙に粛然として敬意を表さざるを得ません。

二〇〇七年一〇月一六日、北京

 

 

結末!

刃が林立していることを承知しているけれど
刃の先端部分がとても甘い蜜で濡れているのが目にとまる。
舌を伸ばしてなめたくてたまらない――
あぁ、どんなに甘い蜜だろうか!
がまんできず一口、もう一口、もう一口……
あれ、舌はどうなった? 私たちの舌は?
いつのまに切り取られたのだろうか?
二〇〇七年一〇月三日、北京

 

 

二〇〇五~二〇一一年―ただ炎だけが風に揺れて……

チベット人自身の祭日* 、
いったい誰の祭日?
分かりません。分かりません。分かりません。
それは、祭日を楽しんでいる人が、
見あたらないからです。
一月から十二月まで、
西暦や中国の旧暦ではなく、チベット歴では、
ロサル* 、サカ・ダワ〔涅槃会、チベット歴の四月一五日〕、ショトゥン〔ヨーグルト祭り、同前六月三〇日〕、ガムチョ・チェンモ〔ツォンカパ燈明祭、同前一〇月二五日、ガンデン・ガムチョ、燃燈祭、ジョラ祭(モンゴル)ともいう〕……
もともとは仏様を拝み、神様にお供えし、悪魔を祓い、そして自分も楽しむ……

このような祭日は私たちからますます遠くなっています。
ただ名前だけ。
ただ虚飾だけ。
ただ一通一通の赤い通達文〔原文は「紅頭文件」で、赤い字句が付されている〕が頭の上に落ちるだけ。
徹頭徹尾、不許可、不許可、不許可!
こうしたら、ああなるぞ。
何につけ恐ろしいことになるのです。
例えば、もしお寺に行けば、もし巡礼すれば、
軽ければ減給、重ければ解職、
さらには投獄。
いつの間にか赤い通達文が少なくなり、
口頭の通達になりました。
これもまたいつの間にか古い慣例になりましたが、
でも、びくびく震えあがらせます。
でも、一番びくびくさせるものではありません。
一番びくびくさせるのは、おととい、その姿を現しました。

おとといはガムチョ・チェンモで、
ツォンカパ(ジェー・リンポチェ)を記念する日でした。
家々にはチューメ〔バターで作った燈明〕がともされ、人々はコンチョク・スム〔仏、法、僧の「三宝」に誓う祈念の言葉。南無三宝の意〕と唱え、
それは昔からの風物詩になっていました。
一年また一年と、二〇〇五年になり、
新任の張書記〔自治区党委員会書記の張慶黎〕が一声ほえるや、ラサは三度震えるようになりました* 。
でもプゥパ〔チベット語でチベット人を指す〕は禁令をかえりみず、どんどん集まり、
炎の輝きは天をこがし、
〔顔が見えないように〕マスクをつけた人々の顔を照らしたのが見えました。
人々は、見張っている制服や私服の警官など気にせず、
喜び慰められていて、そのさまは幻想的でした。
二〇〇六年、『ラサ晩報〔中国共産党ラサ市委員会の機関紙。「晩報」は「日報」よりも一般市民向け〕』は第一面で、
ラサ市党委員会、市政府の名で、
正式に警告しました。「誰であろうと……広範囲にわたり……
燈明祭の行事に参加、及び見物することは不許可」
二〇〇七年、遠く北京にいる私に、友人が告げてくれました。
「警察の多さは空前だ。
信者の多さも空前だ。
アムドやカムからたくさん駆けつけて、群衆の中で五体投地をしている。
ただこの時だけ、ようやく一言だけ声をあげられた……」

今年のガムチョ・チェンモ、
つまり、おととい、ラサでは、
「昼間にパルコル* に行くと、
多くの店は早々と閉めていて……
大音量のスピーカーは、漢語とチベット語で、繰り返し通告していた。
参加は不許可、見物も不許可、集まるのも不許可……
大音量のスピーカーがどこにあるのか分からないが、
ツグラカン〔ジョカン(大昭)寺〕の附近までも、
もっともっと遠くまでも聞こえて……
まるで文革のときのようで、年寄りがつぶやいた。
毎日拡声器から大きな声で漢語とチベット語が流れてくると、ギョッとしたものだ。
ビルの屋上では、たくさん動きまわっていた。
銃を持っているのもいれば、持っていないのも……
旧市街でも、やはりたくさん動きまわっていた。
制服もいれば、私服も……
至る所にアムチョク〔チベット語で耳、漢字表記で「昂覚」、スパイの比喩〕を、
至る所にミク〔チベット語で目、漢字表記で「密」〕を感じる……」

国営新華社の写真がインターネットで出回っていて、
もうもうと焚かれるサン〔香草〕はなく、
天をこがす炎の輝きもなく、
大きなマスクをつけたラサの人々もいなく、
毎年アムドやカムから来る巡礼者も、
いない、いない、いない。
ただツグラカンのクショ〔中央チベットで使われる僧侶の敬称。クショラともいい、意味は上人様に近い〕がともした
一つ一つのチューメの炎が風に揺れて……
群青の夜空の下に屹立するポタラ宮は、まことに寂寥としています。
広場の人影は、もしかしたら、
任務に就いている者の他は、
物見高い者かチベットにはまる者〔原文は「蔵漂」で、漢人地域からチベットに憧れて来る青年などを指す〕でしょうか?
新華社の記事がネットで出まわっています。
防御用盾を持つ武装警官の言葉を引用しています。
「今夜、庶民は思う存分に燈明をつけられるが、悪党には断じて放火させない!* 」
そして、いかにももっともらしい口ぶりで、
「チベット民族の伝統によれば、
今夜の一つ一つの明かりは平安のためにともされます……」と述べています。

いいえ。それは平安の燈明ではなく、
追憶の燈明です。
あなたたちはどれほどお分かりなのでしょうか?
私たちの内心の声が聞こえますか?
「……濁世の蒼生は、祖師を失い痛む。
悲憫なる大地、悲鳴をあげる雪国。
今でも私は待ち、尊者の恩徳を念じる。
ただ尊者が私とともにおられるだけで……」
ただ尊者が私とともにおられるだけで!

 

パンチェン・ラマ

もし時間がうそを抹殺できるなら、
十年で足りるでしょうか?
一人の童子が聡明な少年に成長しましたが、
一羽のインコのように、ぶつぶつ口まねして、
ご主人の歓心を請い願うことしか話しません。

もう一人の少年は、どこにいるのでしょう?
腕に生まれつきあった傷跡は、
彼の前世で、十年前に、
北京にある暗い無道の牢獄で、
手枷にきつく縛られていたもの。
今、消息不明の少年は、
からだじゅう傷だらけなのでしょうか?!

もし暗闇が九重になっているのなら、
彼と彼は、そのからだは何重のところに沈んでいるのでしょうか?
もし光明が九重になっているのなら、
彼と彼は、その思いを何重のところに馳せているのでしょう?

もしかしたら暗闇と光明はそれぞれ重なりあって、
彼はからだを沈め、思いを馳せ……

コンチョク・スム! かくも混乱した俗世で、
どれほどの無常の苦が輪廻により、
パンチェン・ラマの身に顕現したのでしょうか!

二〇〇五年一〇月一二日 北京

 

 

注記:パンチェン・ラマは、チベット仏教ではダライ・ラマに次ぐ第二位の活仏の名跡で、ゲルク(黄帽)派では最高位である。両者は対立的な関係にあったが、ダライ・ラマ一三世の時代に至って決定的に悪化し、一九二三年一一月、パンチェン・ラマ九世は密かにタルシンポ寺を抜け出し、中国に亡命し、この時点から中国と密接な関係が始まった。これは国民党から共産党に変わっても続いた。
一九五二年四月、中国軍がラサを占領すると、パンチェン・ラマ一〇世はチベットに戻った。一九五九年に、ダライ・ラマ一四世はインドの亡命したが、パンチェン・ラマ一〇世は中国との協調路線を選び、チベットに留まり、当初は「毛沢東の息子」と称された。しかし、一九六二年、パンチェン・ラマ一〇世は中国政府に『七万言の意見書』を提出し、チベット統治政策は失政であると指摘したが、これにより失脚し、さらに翌年から九年八カ月も監禁された。その後、パンチェン・ラマ一〇世は文化大革命で破壊された仏塔を再建するなど民族と宗教の存続のために奔走し、一九八九年、中国のチベット統治政策の誤りを告発する演説を行い、「本物の一〇世」として信頼を取り戻したものの、その直後、一月二八日に急死した。
これを受けて、ダライ・ラマ一四世とチベット亡命政府は転生者を探し始めた。ダライ・ラマ一四世は中国政府に協力を求めたが、中国政府は拒否し、タシルンポ寺の高僧チャデル・リンポチェを長とする転生者探索委員会を設置し、探させた。しかし、チャデル・リンポチェは密かにダライ・ラマ一四世に報告し、一九九五年五月一四日、ダライ・ラマ一四世はこれに基づき、ゲンドゥン・チューキ・ニマという六歳の男児をパンチェン・ラマの転生者として認定し、公式に発表した。
これに対して、中国政府はチャデル・リンポチェたち関係者を逮捕し、処罰するとともに、新たに転生者を探し、一一月に六歳のギェンツェン・ノルブを国務院認可のパンチェン・ラマ一一世として即位させた。
他方、ゲンドゥン・チューキ・ニマ少年は、公式発表の後、五月一七日に、両親とともに行方不明となった。当初、中国政府は少年や両親の失踪との関わりを否定していたが、一九九六年五月二八日、当局による連行であると認めた。中国政府は、ゲンドゥン・チューキ・ニマと家族を国内で保護していると主張しているが、消息は不明のままである。ニマ少年は「世界最年少の政治犯」と呼ばれている。
続く

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

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